名前 | 鹿我別(かがわけ) |
登場 | 日本書紀 |
主君 | 神功皇后 |
鹿我別は日本書紀の神功皇后の49年に名前が登場する人物です。
神功皇后の47年に新羅が百済の貢物を奪うという事件が発生し、大和王権では新羅討伐の軍を派遣しました。
この軍の司令官になったのが、鹿我別と荒田別であり朝鮮半島で新羅の軍と戦っています。
日本書紀だと鹿我別は戦いに勝利し帰国した事になっています。
尚、応神天皇の15年8月に荒田別と共に朝鮮半島に渡り王仁を召したとする「巫別」という人物が存在します。
巫別が鹿我別が同一人物ではないか?とする説もあります。
援軍要請
神功皇后の47年に百済の使者である久氐が「貢物を新羅に奪われた」と訴え、日本側は千熊長彦を新羅に派遣し責めさせています。
この後の神功皇后の49年の記述に、荒田別と鹿我別を将軍としたとあります。
鹿我別らは新羅を攻撃する為の将軍となっており、千熊長彦の調べて新羅が貢物を奪った事になったのでしょう。
鹿我別や荒田別は将軍となると久氐と共に、卓淳国に陣を布きました。
鹿我別らは新羅を攻撃しようとしますが、この時に次の様な助言を受けています。
「兵が少なく新羅を破る事は出来ない。沙白、蓋盧に使者を派遣し援軍を請うべきです」
日本軍の首脳部は進言を採用し、木羅斤資と沙沙奴跪に精鋭を預け沙白、蓋盧に派遣しました。
沙白や蓋盧の兵も鹿我別らの軍に加わる事になります。
日本軍は精鋭を見せる事で、沙白と蓋盧に軍を出させた様にも感じました。
快進撃
卓淳国に集まった日本、沙白、蓋盧の連合軍は新羅を攻撃すると大勝しました。
この時に鹿我別や荒田別の采配が光ったのか、比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅と7カ国を平定したとあります。
さらに、鹿我別らは軍を移し古爰津まで行き、南方の耽羅(済州島)を百済に与えました。
これを考えると、日本軍は朝鮮半島で大暴れしたと言えるでしょう。
こうした中で百済の近肖古王と息子の貴須王が兵を率いて到着し、比利、辟中、布弥支ほむき、半古の四邑が降伏しました。
日本軍と百済王の父子、木羅斤資、沙沙奴跪らは一同に集まると意流村で合流し、皆が顔を見て喜んだとあります。
日本と朝鮮半島の連合軍だったはずですが、既に戦友となっていたのでしょう。
百済も日本の大盤振る舞いに満足した様に感じました。
神功皇后の50年春2月に「荒田別らが帰国した」とあり、この時に鹿我別に帰国したのでしょう。
この後に、鹿我別がどの様になったのかは不明ですが、最初に述べた様に王仁を迎えに行った巫別との同一人物説があります。