虢石父は西虢の君主であり、西周時代末期の人物です。
虢石父は周の幽王の時代に卿となりますが、非常に評判が悪かったと書かれています。
周の幽王は褒姒を得ると寵愛し夢中になりますが、虢石父は褒姒と結託しました。
虢石父は褒姒と共に申后や宜臼を讒言し、太子の座から追い落としています。
ここで虢石父が周王朝の内部で大きな権力を握った可能性もありますが、西周王朝は申侯や犬戎らの攻撃を受けて崩壊しました。
虢石父と虢公翰が同一人物とする説もありますが、実際には虢石父の行方は分からなくなっています。
今回は西周王朝の佞臣として名を馳せた虢石父を解説します。
利を好む
史記によると周の幽王は虢石父に政治を行わせたとあります。
虢石父の政治は利を好みへつらうのが上手く人望が無かったと伝わっています。
これを見ると虢石父は自分の利益ばかりを優先し、他者の利益を後回しにした様に思うかも知れません。
しかし、当時は西周時代の末期であり寒冷化も重なり、周王朝は行き詰まっていたわけです。
それを考えると、虢石父は悪い時期に卿になってしまったとも言えるでしょう。
ただし、虢石父は利を好んだとありますが、基本的に政治の中心となると自分の利益を優先するのが普通であり、その点は虢石父だけが避難される事でもないはずです。
褒姒と結託
虢石父は褒姒と結託し、申后と太子の宜臼を讒言した話があります。
褒姒は自分の子である伯服を周の幽王の後継者にしたいと考え、虢石父は褒姒を支持する事で権力を固めたいと思ったのかも知れません。
申后は申侯の娘であり実家の力が強いですが、褒姒は諸侯の娘だった記録がなく、幽王の寵愛だけが頼りでした。
褒姒の立場は晋の献公に寵愛された驪姫の様な立場だったのでしょう。
伯服が周の幽王の後継者になれば、伯服を支持した虢石父も周王朝で権力を握る事が出来ると考えた可能性があります。
周の幽王も褒姒を后にして伯服を後継者にしたいと考えており、虢石父を重用したのでしょう。
虢石父らの讒言は功を奏し、周の幽王は皇后の座を申后から褒姒に変え、太子も宜臼から伯服へと変えました。
宜臼は母親の申后の実家である申に亡命し、周の幽王は申に宜臼を身柄を引き渡す様に要請しますが、断れています。
宜臼の元には申だけではなく呂、許、魯、繒などの諸侯が集まり、周は分裂してしまったわけです。
周の分裂を考えれば虢石父が宜臼を讒言した罪は極めて重いと言えるでしょう。
尚、鄭の桓公は伯陽の意見を聞き西周王朝が崩壊した時の為に手を打っていましたが、虢も春秋時代まで存在しており、何かしらの手を打った可能性がある様に感じています。
虢石父の最後
虢石父の最後は、どの様なものだったのかは記録がなく不明です。
周の幽王の卿となり政治を任され評判が悪かった話があり、そこで虢石父の足跡は途切れています。
虢石父は周の幽王派であり、後に周の幽王が亡くなった時に、虢石父も一緒に亡くなった可能性もあるはずです。
周の平王は虢石父の事を恨んでいたはずであり、虢石父が申侯の捕虜となれば只では済まない事でしょう。
虢石父の子が虢公翰だとする説もありますが、虢石父と虢公翰が同一人物とする説もあります。
同一説を取るのであれば、虢石父は周の東遷まで生きていた事になります。
虢石父と虢公翰が同一人物であれば、西周王朝の崩壊後に虢石父は余臣を立てて携王とし、周の平王の勢力と戦った事になります。
先にも述べた様に虢石父は周の平王や申侯に恨まれていたはずであり、周の幽王が亡くなれば別の人物を王として立てねばならなかったはずです。
それが余臣だったのでしょう。
虢石父は佞臣として名が通っていますが、中身に関して分かっている事は少ないと言えます。
具体的に虢石父が政治において何をしたのかもイマイチ分かってはいません。