朝倉氏景は朝倉高景の嫡子であり、1339年に生まれた事が分かっており、越前朝倉氏の三代目当主になった人物です。
朝倉氏景の姉や妹は甲斐氏に嫁いだとも考えられています。
白土城の戦いでは、朝倉氏景の武勇が際立っており、城を陥落させました。
他にも、足利義満からは「大功勝勲」の号まで賜わっており、多くの戦場で活躍した武人だったと言えます。
朝倉氏景は熊野信仰を越前で盛んにしようとした事も分かっており、弘祥寺の整備も行っています。
白土城の戦い
斯波高経は幕府で佐々木道誉らとの政争に敗れ、京都の邸宅に火を放ち越前に出奔しました。
斯波高経は杣山城で籠城しますが、朝倉氏の当主である朝倉高景は室町幕府に味方する事になります。
朝倉氏景は父親の高景と共に黒丸城にいましたが、白土城の軍勢が弘祥寺に向かうのではないかとする情報が入って来ました。
白土城には千秋氏の軍勢がおり、朝倉氏と敵対する事になったいたわけです。
父親の朝倉高景は「白土城は守りが固いから下手に攻めれば兵の損耗が激しい」と考えて、白土城に兵を向けようとはしなかったわけです。
朝倉高景の判断に猛反発したのが、朝倉氏景であり、船で黒丸城を出て音を立てずに、日野川を遡り白土城に麓にまで辿り着きました。
船での移動を可能にしている辺りは、朝倉軍に優れた水軍があった事の証とも言えます。
道角入道なる人物を案内役として、朝倉勢は白土城に攻撃を仕掛けたわけです。
乱戦となりますが、遂に朝倉氏景は白土城を陥落させる事に成功しました。
尚、白土城の戦いで朝倉氏景は兜の中に槍を入れられますが、歯で噛んで防いだ話があります。
話の真相は不明ですが、朝倉氏景が武勇に優れた者だった事は間違いないでしょう。
斯波高経は朝倉勢により白土城が陥落した事を知ると、蕗野寺城の勢力に黒丸城を攻撃させています。
ここで朝倉氏景は父親の朝倉高景と協力し、黒丸城を守り抜く事に成功しました。
戦いの方は斯波高経が病死し、斯波義将の幕府復帰が決まった事で終わりを迎えています。
武勇に優れし者
朝倉高景が没すると、朝倉氏景が朝倉氏の当主となります。
この時代は足利義満の時代であり、斯波義将が管領を行っていた時代でもあります。
斯波義将が管領になった頃から、朝倉氏の情報は少なくなっていきます。
一つの説として斯波氏に味方せず幕府に味方する朝倉氏を恨んでおり、冷遇したともされているわけです。
それでも、朝倉氏景は摂津中島の戦いでは先陣を務め足利義満から「大功勝勲」の号を賜わった話があります。
南北朝時代の終わりが見えて来た頃の1388年には、京都で新田兄弟を討ち取るなどもしました。
足利義満が山名氏の勢力を削ごうとした明徳の乱では、由生氏・甲斐氏・二宮氏らと共に斯波義重に従軍しており、功績を挙げています。
これらの実績を見ても朝倉氏景が武勇に優れていた事がよく分かるはずです。
熊野権現
朝倉氏景は熊野権現を信仰し、一乗に熊野権現を勧請したとする記録があります。
朝倉氏の本拠地は第七代朝倉孝景の時代に黒丸城から一乗谷に移したとされてきましたが、別説として朝倉氏綱の代には朝倉氏の勢力が一乗まで及んでいたとも考えられています。
中世の熊野信仰は多くの者達に受け入れられてきましたが、越前でも盛んになっていったのでしょう。
さらに、朝倉氏景は朝倉氏の氏寺である弘祥寺の整備を行い、氏景の妻である天心清佑は南陽寺を創建しました。
尚、朝倉氏景は1404年に66歳で亡くなり、法名は大功勝勲になっています。
後継者は朝倉貞景となりました。