名前 | 畠山国氏 |
生没年 | 生年不明ー1351年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:畠山高国 兄弟:直泰 子:国澄、国詮 |
年表 | 1345年 奥州管領に就任 |
1351年 岩切城の戦い | |
コメント | 奥州管領になるも吉良貞家に敗れる |
畠山国氏は奥州管領となり父親の高国と共に奥州に向かいました。
当時は吉良貞家と奥州管領を分け合って協力関係にありましたが、観応の擾乱が勃発すると敵対関係となります。
吉良貞家が多くの国人に支持されたのに対し、畠山国氏を支持する者は少なく、吉良貞家の攻撃により世を去りました。
尚、畠山国氏と吉良貞家の勝敗を分けたものは、行政や司法への経験値だと考えられています。
奥州管領に就任
石塔義房は1337年に奥州総大将に就任すると、高師冬らと協力し常陸合戦で勝者となりました。
石塔義房は奥州の実力者というべき立場となりますが、足利尊氏は石塔義房の奥州総大将の位を剥奪しました。
この後に、室町幕府では奥州管領二人制を採用し、奥州管領に任命されたのが畠山国氏と吉良貞家となります。
畠山国氏は守護などに補任された事がなく、いきなりの奥州管領になってしまったと言えるでしょう。
ただし、父親の畠山高国が後見人として、奥州に同行しました。
畠山国氏と同じく奥州管領の吉良貞家は、協力者でありながらお互いを牽制しあう仲となります。
畠山国氏の最後
中央では足利直義と高師直の対立があり、観応の擾乱に発展しました。
直義と高直の対立は奥州にまで波及し、奥州管領の畠山国氏と吉良貞家の対立にまで発展しています。
畠山国氏は師直派となりますが、吉良貞家は直義派となりました。
足利直義と高師直の対立は、全国的に足利直義が優勢であり、奥州の地でも吉良貞家が優勢となります。
畠山国氏と畠山高国の親子は、吉良貞家により岩切城に追い詰められました。
こうした中で観応二年(1351年)2月12日に、畠山国氏は高国と共に直属の被官及び、味方の国人数百二人と共に自害して果てる事になります。
ただし、畠山国氏には畠山国詮なる子がおり、後に畠山国詮が二本松氏の祖となりました。
畠山国氏の敗因
畠山国氏の敗因ですが、吉良貞家との経験値の差が出たと考えられています。
畠山国氏は守護などの経験もなく、いきなり奥州管領になってしまいました。
それに対し、吉良貞家は因幡や但馬の守護を務めるだけではなく、奥州に向かう直前まで幕府の引付頭人になっています。
畠山国氏の父親の畠山高国は伊勢守護を2年ほど務めましたが、奥州にやってくるまでの7年間の間に、何処かの守護をやっていたわけではありません。
こうした事情から吉良貞家に比べると、法律や行政など大きく劣っていたと見る事が出来ます。
吉良貞家は奥州に下向した時から、積極的に国人らの懐柔を行っており、多くの国人領主に支持されました。
さらに、同族で後に関東執事となる畠山国清と連携した記録も見えず、政治力で吉良貞家に圧倒されてしまったのでしょう。