室町時代

佐竹義人は山内上杉家の出身

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宮下悠史

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名前佐竹義人(さたけよしひと)
幼名龍保丸
別名義憲、義仁
生没年1400年ー1467年
一族父:上杉憲定 義父:佐竹義盛 配偶者:源姫 兄弟:上杉憲基
子:結城持朝室、義頼、上杉実定、戸村義倭、小野義盛、義経
コメント上杉氏から婿養子で佐竹氏に入った

佐竹義人は室町時代の人物です。

父親は上杉憲定ですが、佐竹義盛の娘である源姫の婿養子となり、常陸佐竹氏の十二代目の当主となりました。

しかし、上杉氏からの婿養子であり、佐竹庶子家筆頭の山入氏などの反発が起きる事になります。

佐竹氏内部の対立から佐竹の乱が勃発し、鎌倉公方と上杉氏が対立すれば、佐竹氏も分裂して争うなど、100年続く抗争が始まった時代でもあります。

息子の佐竹義頼に家督を譲りながらも、佐竹(上杉)実定に協力し本拠地の太田城から追い出すなどもしました。

最終的に佐竹義頼と和解し、最後を迎えています。

尚、佐竹義人は元服した最初の名前は義憲ですが、後に改名し義仁や義人と名乗っています。

ここでは混乱を防ぐために、基本的に幼名の龍保丸か佐竹義人の名で記載しました。

龍保丸(佐竹義人)が婿養子となる

龍保丸(佐竹義人)は上杉憲定の子ではありましたが、佐竹義盛の娘の源姫の婿養子となりました。

これが応永十四年(1407年)の事です。

龍保丸は佐竹宗家の後継者となり、常陸守護となるや応永十五年(1408年)には鎌倉府からの命令で、鹿島憲幹が押領した鹿島社領の返還の手続きを行っています。

龍保丸は自らの意思で何処まで関わったのかは不明ですが、常陸守護としての活動が見受けられます。

ただし、佐竹庶子家筆頭の山入氏は反龍保丸であり、苦難も多かったわけです。

龍保丸は元服すると佐竹義憲を名乗りますが、ここでは有名な佐竹義人(後年に改名)の名で解説します。

上杉禅秀の乱

上杉禅秀の乱が勃発すると、佐竹義人は鎌倉公方の足利持氏を支持しました。

これに対し、佐竹氏の庶子家である山入与義は、上杉禅秀に味方したわけです。

鎌倉府内の足利持氏と上杉禅秀の対立が、地方にまで波及し佐竹氏内部の代理戦争にも発展しました。

上杉禅秀は室町幕府の支持を得られず、室町幕府は足利持氏を支持しています。

結果として、上杉禅秀は最終的に自害し上杉禅秀の乱は終焉を迎えました。

山入氏との対立が激化

足利持氏は上杉禅秀に味方した者が許せなかった様であり、佐竹義人やその配下の者達に上杉禅秀に与した者を討伐する様に要請しています。

佐竹義人は稲木義信、長倉伊義を降しました。

佐竹氏の混乱は続き山入与義は山入氏の庶子家で、佐竹義人擁立に賛同した小田野自義を自害させています。

さらに、額田秀直は額田城を拠点に反旗を翻し、2年近くに及び籠城しました。

額田氏は滅亡しましたが、佐竹義人は重臣の小野崎通業の孫の通重を額田氏の後継者とし復活させています。

本来なら山入与義や子の山入祐義も討伐対象でしたが、室町幕府は山入氏を擁護する動きを見せ、常陸守護補任の提案までして来たわけです。

足利持氏の方でも山入氏との和睦に動き関係は修復しますが、足利持氏は山入氏を疑う様になり、最後や山入与義の邸宅を襲撃し殺害してしまいました。

山入氏の所領没収

足利持氏は山入氏の所領の没収を始めました。

山入氏の依上宗義の領地を没収し、結城氏朝に与えています。

小田野自義の所領も没収されており、地理的にも白河結城氏の侵攻を許す危険も出てきた事で、佐竹義人は苦々しい目でいたのでしょう。

さらに、室町幕府では山入氏と佐竹氏で常陸を半守護とし、和睦する様に命じました。

こうして表面上は和睦が成立しましたが、予断は許されぬ状況だったわけです。

永享の乱

足利義持及び足利義量の後継者が、くじ引きで足利義教に決まりました。

鎌倉公方の足利持氏は将軍の座を渇望しており、不満が募る結果となります。

永享の乱では佐竹義人は足利持氏に味方しますが、幕府方には関東管領の上杉憲実がいました。

元を辿れば佐竹義人は上杉氏の出身であり、兄の上杉憲基の養子が上杉憲実であり、さらに、佐竹義人は二男の義実を上杉憲実に出しており、非常に近しい関係でした。

永享の乱で佐竹義人は実家である上杉氏を敵に回してしまったと言えるでしょう。

嘉吉の乱

永享の乱は足利持氏の自害を以て終わりますが、持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁立した結城氏朝による結城合戦も勃発しました。

結城氏朝の死で結城合戦は終わりますが、幕府としては足利持氏に味方した佐竹義人は許せない存在であり討伐対象としています。

足利義教は上杉憲実の家宰である長尾実景に、佐竹義人討伐を命じました。

しかし、その直後に足利義教は赤松満祐に暗殺され、佐竹義人の討伐は中断しています。

足利義教が暗殺された嘉吉の乱により、佐竹義人は命拾いしたと言えそうです。

足利持氏の遺児に万寿丸王がおり、鎌倉から信濃に逃れ大井持光が養育していました。

関東では鎌倉公方の復活が望まれ、足利義成(後の足利義政)から偏諱により、万寿丸王が足利成氏と名乗り鎌倉に入る事になります。

しかし、関東管領は父と対立した足利憲実の子である上杉憲忠であり、遺恨が精算されない状態での鎌倉府復興となりました。

この頃には、佐竹義人は家督を嫡子の佐竹義頼に譲っていた事がわかっています。

佐竹義人の二男である佐竹実定(六郎)は、上杉憲実の養子に入っていました。

順当に行けば佐竹実定が後継者になる予定でしたが、永享の乱では反幕府の行動を取った佐竹義人の子である佐竹実定を関東管領にするわけには行きませんでした。

佐竹実定は佐竹氏に戻る事になりますが、佐竹義頼(五郎)と嫡子の佐竹義治を急襲し、追放してしまったわけです。

これが佐竹義頼(五郎)と佐竹実定(六郎)の名から五郎六郎合戦と呼びます。

尚、五郎六郎合戦では、佐竹義人や宿老の江戸氏は佐竹義人に味方しました。

佐竹義人や佐竹実定らは、幕府の公認の元で乱を起こしたと考えられています。

幕府としても佐竹宗家を鎌倉公方の与力から、室町幕府・関東管領方に戻す狙いがあり、お互いの利益が一致したのでしょう。

佐竹義人の最後

享徳三年(1454年)に足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害し、享徳の乱が勃発しました。

後に足利成氏は古河に移り古河公方が誕生しています。

1465年に佐竹義人よりも先に、子の佐竹実定が亡くなり、嫡子の佐竹義実が後継者となりますが、僅か5歳でした。

さらに、佐竹義実の最大の支援者であった江戸通房が亡くなり、嫡子の江戸通長が家督を継ぎますが、まだ14歳だったわけです。

佐竹義実は求心力を失いました。

こうした中で佐竹義人と佐竹義頼は和解し、太田城に戻る事になります。

佐竹義実は追放され、江戸氏を頼っています。

佐竹義頼は幕府方となり、山入祐義の子の山入義継は古河公方の足利成氏を支持しました。

こうした中で佐竹義頼は、家督を佐竹義治に譲る事になります。

佐竹氏と山入氏の混乱は続く中で、佐竹義人は応仁元年(1467年)11月に世を去りました。

佐竹義人の代で山入氏との佐竹の乱は収まらなかったわけです。

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