小田野自義は室町時代に活躍した人物です。
父の山入師義が足利尊氏に忠義を尽くし亡くなった事で、山入氏は大規模な総領制が誕生し、小田野氏も誕生しています。
小田野自義の小田野氏は山入氏の庶流です。
そのさらに上には、佐竹宗家があり佐竹氏の惣領となります。
佐竹義盛の後継者として、山内上杉氏の龍保丸(佐竹義人)の擁立に賛同しました。
これにより兄の山入師義と対立し、最後を迎えています。
龍保丸を推す
佐竹義盛が亡くなる時に、後継者が定まっておらず、佐竹氏の重臣である江戸通景や小野崎通綱らは関東管領・上杉憲実の子である龍保丸を養子として迎える案を出しました。
龍保丸を佐竹義盛の娘である源姫の婿養子とし、佐竹宗家の後継者とする案です。
これに賛同したのが、小田野自義です。
小野田自義は龍保丸擁立の中心人物の一人として、活動する事になります。
ただし、兄の山入与義は龍保丸の擁立に猛反対しており、これが小野田自義に不幸をもたらす事になります。
尚、山入氏の惣領である山入与義は龍保丸擁立に反対し、山入系列の多くが反龍保丸派であり、小野田自義は異端児でもあったのでしょう。
小野田自義の最後
反龍保丸派は長倉城に籠城しますが、結局は降伏しました。
しかし、これが佐竹の乱の序章に過ぎず、騒乱は終わらなかったわけです。
応永二十八年(1421年)になると、佐竹宗家と山入氏との間で抗争が勃発しました。
小野田自義は過去に龍保丸(佐竹義人)の擁立に動いた経緯があり、佐竹宗家の派閥とみなされました。
兄の山入与義は小田野自義を攻撃し、自害に追い込んでいます。
これにより小野田自義は最後を迎えました。
小野田自義の旧領
後に鎌倉公方の足利持氏は自分に敵対した者たちの領地を奪い始めました。
小野田自義の旧領である小里郷、町田郷を小峰朝親に与えています。
この時に佐竹義人は静観しましたが、内心では自分を佐竹氏の当主になれるように擁立してくれた小野田自義の土地が奪われるのを苦々しく見ていたのではないでしょうか。
山入氏の依上宗義も所領を没収され、結城氏朝に与えられており、佐竹系の所領が没収され、結城氏(白河結城氏・小峰氏)に与えられてしまい白河氏の侵攻を容易に受ける勢力図になってしまったと言えるでしょう。