名前 | 佐竹義頼(さたけよしより) |
別名 | 佐竹義俊、五郎、伊予守 |
生没年 | 1420年ー1477年 |
時代 | 室町時代 |
一族 | 父:佐竹義人 母:源姫 |
兄弟:結城持朝室、義俊、上杉実定、戸村義倭、小野義盛、義経 | |
子:義治、天神林義成、宇留野義公、宇留野存虎、戸村義易 | |
コメント | 五郎六郎合戦の勝者 |
佐竹義頼は佐竹義人の子で室町時代に活躍した人物です。
佐竹氏の第十三代当主に数えられています。
佐竹義頼の時代は弟の佐竹実定との争いの時代であり、五郎六郎合戦が勃発しています。
五郎六郎合戦では太田城を子の佐竹義治と共に追われました。
しかし、佐竹実定が没した後に、佐竹義実は太田城から退去しており、五郎六郎合戦の勝者となっています。
五郎六郎合戦
太田城を追われる
佐竹義頼は父の生前に家督を譲られ佐竹氏の当主となっていました。
弟の佐竹実定は上杉憲実の後継者になるべく養子として入っていましたが、父親の佐竹義人が反上杉となった事で居場所を失い佐竹氏に戻って来たわけです。
佐竹義頼に対し、佐竹実定が乱を起こしました。
佐竹義頼は子の佐竹義治と共に太田城を去らねばならなくなります。
佐竹義頼が太田城を追われた背景には、佐竹氏の重臣である江戸氏が佐竹実定を支持した事が原因だとされています。
佐竹義頼は仮名が「五郎」であり佐竹実定は「六郎」となっており、これが五郎六郎合戦の始まりとなります。
尚、佐竹実定はクーデータを起こしたわけですが、父の佐竹義人の了承の元で行われたのではないかと考えられています。
関東管領上杉氏と古河公方
太田城を追われた佐竹義頼と義治の親子ですが、那珂西郡の孫根城の大山因幡入道常金を頼りました。
大山氏は佐竹義篤の子の大山義孝から始まり、鎌倉公方を支持していた者であり、佐竹義頼を受け入れたわけです。
この時期に佐竹義頼は那珂川東岸にいる佐竹実定を支持する小場氏を攻撃しました。
さらに、佐竹義頼は小場氏領を与える事を条件とし、下那須氏に援軍要請しています。
五郎六郎合戦は終わりが見えず戦いは続いたわけです。
佐竹実定は太田城におり、関東管領上杉氏や室町幕府を支持し、佐竹義頼は古河(鎌倉)公方を支持しました。
佐竹義人は一時的には関東管領上杉氏を支持しましたが、結局は古河公方の支持に切り替えています。
尚、鎌倉公方の足利成氏は駿河守護の今川範忠により、鎌倉を占拠され古河に本拠地を遷し古河公方と呼ばれる事になります。
五郎六郎合戦の勝者
寛政五年(1467年)になると、佐竹実定と江戸通房が相次いで亡くなりました。
佐竹実定の後継者になった佐竹義実でしたが、まだ14歳であり年齢的な不安もあったのか家中は揺れる事になります。
さらに、最大の支援者であった江戸氏は江戸通雅が後継者になりますが、家中は揺れており纏めるのに苦労したのかも知れません。
こうした中で佐竹義頼と佐竹義治の親子は大門城に入り、後には太田城を奪還したわけです。
佐竹義実は太田城を出て江戸氏を頼りました。
これにより五郎六郎合戦が終焉し、勝者は佐竹義頼となります。
これを機に、佐竹義頼は古河公方の足利成氏の支持を取りやめ、室町幕府の足利義政を支持する勢力に変わりました。
しかし、佐竹義頼が室町幕府を支持した事で、山入氏の山入義継は古河公方の足利成氏を支持する勢力となっています。
佐竹義頼の最後
佐竹義頼は五郎六郎合戦の勝者となると、家督を嫡子である佐竹義治に譲りました。
この頃に佐竹義俊に改名した事も分かっています。
父親の佐竹義人が亡くなると、佐竹義治の当主としての立場は盤石となりました。
こうした中で文明九年(1477年)に佐竹義俊(義頼)が世を去っています。
山入氏との抗争である佐竹の乱は終わってはいませんが、自らの子である佐竹義治に佐竹宗家の後継者にする事に成功し、生涯を終えたと言えそうです。