室町時代

江戸通房は水戸城を奪取した

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宮下悠史

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名前江戸通房(えどみちふさ)
生没年1410年ー1465年
時代室町時代
一族父:江戸通房 子:江戸通雅など
コメント水戸城を奪取した

江戸通房は江戸通景の子で、室町時代に活動した人物で佐竹氏の重臣でもあります。

父親の江戸通景は佐竹義人の擁立に功績がありました。

子の江戸通房の時代になると、水戸城を奪取するなど江戸氏の勢力は拡大に向かう事になります。

江戸通房は佐竹氏の重臣であり佐竹実定に協力し、佐竹義頼を追放しました。

これが五郎六郎合戦の始まりでもあります。

江戸通房が存命中は佐竹実定も兄の佐竹義頼に抵抗するだけの力がありましたが、佐竹実定と江戸通房が同時期に亡くなると、後継者の佐竹義実は抵抗力を失いました。

水戸地方に勢力拡大を目指す

江戸通房は最初は河和田城を本拠地としていましたが、大掾満幹が常陸府中に向かった隙をつき水戸城を奪取しました。

江戸通房は水戸地方の勢力拡大を目指す事になります。

江戸氏は佐竹氏の重臣ではありましたが、独自路線をとる事も多かった事で知られています。

佐竹氏では上杉氏の養子になっていた佐竹実定が、太田城を乗っ取り兄の佐竹義頼を追い出してしまいました。

佐竹義頼は那珂西郡の孫根城に入り佐竹実定に対抗しますが、佐竹実定が兄に抵抗出来たのは、江戸通房の支援が大きかったとされています。

室町幕府でも佐竹実定を支援したりしていましたが、水戸などの那珂川中流域に拠点を持つ、江戸氏の存在を重視しました。

江戸通房の最後

寛正六年(1465年)に江戸通房は世を去る事になります。

同年に佐竹実定も世を去りました。

太田城には佐竹実定の子である佐竹義実がおり、後継者となっています。

しかし、佐竹義実は父である佐竹実定と、佐竹氏の重臣で最大の支持者である江戸通房を失っており、大打撃を食らったわけです。

佐竹義頼と義治の親子の反撃が始まると、佐竹義実は対抗する事が出来ず、江戸氏の元に落ち延びました。

江戸通房の後継者には江戸通雅がなっており、一時的に佐竹実定を匿いますが、後に江戸氏は佐竹義実を殺害しています。

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