古代オリエント

ウルナンムは街道や法典の整備などの実績がある

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宮下悠史

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名前ウルナンム
生没年生年不明ー紀元前2095年頃
民族シュメール人
コメントウル第三王朝を建国

ウルナンムはウル第三王朝を建国した人物です。

元はウルク第五王朝のウトゥヘガルの将軍として、ウルの統治を任されていました。

しかし、原因は不明ですが、ウルナンムがウル第三王朝を建国する事になります。

施行されたのかは不明ですが、ウルナンム法典も制定しました。

ウルナンムは街道整備やジックラトの修復なども積極的に行いましたが、戦場で亡くなったともされています。

ウル第三王朝の建国

ウルナンムはウルに駐屯するウトゥヘガルの将軍だったと考えられています。

主君のウトゥヘガルに忠誠を誓い新宮殿を建てるなどしていました。

しかし、ウルナンムは何処かのタイミングで野心を抱いたのか、ウトゥヘガルに禅譲されたのかは不明ですが、ウルクは倒されウルナンムが覇者となります。

ウトゥヘガルはウルクを本拠地としましたが、ウルナンムはウルを本拠地に置く事になります。

ウルナンムがウル第三王朝を建国しました。

尚、ウルナンムはラガシュを破るなどの攻撃を挙げた事も分かっています。

支配領域

ウルナンムの治世の中で「ウルナンムが下から上まで道をまっすぐにした年」と言うのがあります。

ウル第三王朝の時代になると、その年もしくは前年に起きた重要事項を年名にしたりしており、ウルナンムが街道整備をした事は間違いないでしょう。

ただし、上から下の道が何処を指すのかは正確には不明ですが、下から上と言うのが「ペルシア湾から地中海」を指すのではないかと考えられています。

さらに、ウルナンムはウルクやニップル、エリドゥのジッグラトの修復も行いました。

交易などで財を成し、ウルナンムには財政的な余裕があったとも考えられています。

これらの事からウルナンムはアッカド帝国と同じ位の、広大な土地を領有したのではないかともされています。

ただし、ウルナンムは「シュメールとアッカドの王」を名乗ったに過ぎず、領域はメソポタミア南部に留まった可能性もあるはずです。

ウルナンム法典

ウルナンムはウルナンム法典を制定しました。

ウルナンム法典はハンムラビ法典とも比較され「やられても、やりかえさない」「復讐しない」法律でもあります。

殺傷事件や民法なども定められていた事が分かっています。

ただし、ウルナンム法典が本当に当時のシュメール人の間で、実施されたのかは不明です。

ウルナンムの最後

ウルナンムの最後は正確な部分は分かってはいません。

しかし、有力な説としてグティ人やエラム人との戦いにおいて、戦死したとも考えられています。

ウルナンムが亡くなるとシュルギが後継者となりました。

シュルギはウルナンムとシアトゥムの子だと考えられています。

シュルギは当時の王としては珍しく読み書きが出来た話しもあり、この辺りはウルナンムの教育の賜物なのかも知れません。

シュルギの治世は48年に及びウル第三王朝を興隆させました。

尚、シュルギの治世が48年と極端に長い事もあり、ウルナンムは若くして亡くなったとする説もあります。

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