
曲沃の荘伯は晋の分家である曲沃の二代目の当主です。
桓叔の後継者となり、翼の晋の本家と戦う事になります。
結局、曲沃の荘伯の時代に晋を統一する事は出来ませんでした。
しかし、個人的には、紀元前718年の段階で晋を統一する好機が来ており、ここで周の桓王との対立が無ければ、晋の混乱を30年早く収める事が出来たのではないでしょうか。
曲沃の荘公は大魚を逃した様にも見えるわけです。
曲沃の荘伯が立つ
曲沃の荘伯の父親である桓叔は、紀元前739年に晋の首都である翼に進撃しました。
この時の桓叔は既に60歳を超えていたと考えられており、後継者の鱓(荘伯)も従軍した可能性がある様に感じています。
もしくは、鱓は曲沃を守っていたのかも知れません。
しかし、戦いには敗れました。
晋の昭侯を殺害した潘父と桓叔は手を結んでおり、自らが晋君として立つべきだと考えており、さぞかし無念だった事でしょう。
桓叔は失意のうちに亡くなったと考えられますが、後継者になったのが鱓であり、これが曲沃の荘伯となります。
荘伯は父の遺志を継ぎ、晋の本家である翼の打倒に動く事になります。
荘伯が晋の孝侯を討つ
晋の本家では孝侯が後継者になっていましたが、荘伯との戦いは継続されています。
竹書紀年によると紀元前726年に、晋の孝侯が曲沃の穀物を焼き払った話があります。
本家の翼と分家の曲沃の仲の悪さが分かる話でもあります。
こうした中で、曲沃の荘伯が翼で、晋の孝侯を誅したとあります。
史記にも書いてある事件なのですが、敵の本拠地である翼で、曲沃の荘伯が晋の孝侯を殺害した事になっているわけです。
この後に、晋の人々が荘伯を攻撃した事で、荘伯は曲沃に戻った事になっています。
敵の本拠地に荘伯が乗り込んで、自ら晋の孝侯を仕留めたとは考えにくく、部下を使って晋の孝侯を暗殺したという事なのでしょう。
晋の孝侯が亡くなったタイミングで、翼を攻撃し陥落させるつもりが、本家を支持する国人らにより撃退されたとも考えられます。
荘伯が孝侯を暗殺した事件を見ると、荘伯にとって、晋の本家に同族意識を持っていなかった事も分かるはずです。
既に翼の本家と曲沃は赤の他人とも言える状態だったのでしょう。
それと同時に、晋の本家には、曲沃の軍を撃退するだけの軍事力が保持していたと考えられます。
曲沃の荘伯の翼攻め
晋の本家では鄂侯が立ちますが、史記によると紀元前718年に鄂侯が亡くなり、好機と見た曲沃の荘伯が挙兵し晋を攻撃したとあります。
史記では周の平王が虢に命じて、曲沃を討ち荘伯は退却し、曲沃を守ったとあります。
ただし、周の平王は紀元前720年に崩御しており、後継者の周の桓王の間違いでしょう。
しかし、春秋左氏伝には別の内容が記載されており、曲沃の荘伯は鄭や邢と共に翼を攻撃し、周の桓王も荘伯に尹氏や武氏を派遣し、荘伯を援助したとあります。
春秋左氏伝の記述を見る限りでは、東周王朝の公認で曲沃の荘伯は翼を攻撃した事になるのでしょう。
晋の鄂侯は隋に逃亡したとあります。
この後に、春秋左氏伝では曲沃の荘伯が周の桓王から離反し、桓王が虢に命じて、曲沃を討ち晋の哀侯を擁立した事になっています。
何が原因なのかは不明ですが、曲沃の荘伯は周の桓王と対立してしまったのでしょう。
曲沃の荘伯の行動が晋の統一を30年遅らせた
春秋左氏伝の記述を見ると、曲沃の荘伯は理由は不明ですが、周の桓王と対立しました。
しかし、周の桓王は最初は曲沃の荘伯の味方をしていたのであり、大義名分もあり晋を統一させる絶好の機会だったのではないでしょうか。
春秋左氏伝の記述は簡略であり、内容は不明ですが、ここで曲沃の荘伯が周の桓王を上手く取り込んでいれば、晋はもっと早くに統一出来た様に感じています。
これ以降の周の桓王は曲沃勢が翼の主君を倒しても、虢に命じて再興するを繰り返しています。
最終的に曲沃の武公は周の僖王に賄賂を贈り、晋の本家を滅ぼしました。
これを考えれば、紀元前718年の段階で、曲沃の荘伯が賄賂を渡すなど上手く立ち回っていれば、晋の内乱はもっと早くに終わった可能性もあると感じました。
晋の内乱が30年早く終わった可能性もあるはずです。
紀元前718年の段階で、晋が一つになっていれば、斉の桓公が覇者になる事もなく、もっと早くに晋覇の時代が来たのかも知れません。
これを考えれば、曲沃の荘伯は「大魚を逃す」を実践してしまったのではないでしょうか。
曲沃の荘伯の最後
春秋左氏伝には、曲沃の荘伯の最後の記述はありません。
史記には曲沃の荘伯の最後の記述があり、晋の哀侯の2年に亡くなったとあります。
曲沃の荘伯は、紀元前716年に世を去った事になるのでしょう。
周の桓王と対立し、自分の代では翼の本家を倒す事が出来ないと考え、失意のうちに亡くなってしまったのかも知れません。