
| 名前 | 孔父嘉 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前710年 |
| 国 | 宋 |
| コメント | 美人妻が原因で最後を迎えた |
孔父嘉は宋の大司馬を務めた人物です。
宋の穆公からの信頼も厚く、亡くなる時に宋の殤公を頼まれました。
ただし、宋の殤公の時代は鄭との戦いの時代でもあり、戦乱により民衆が苦しんだ時代でもあります。
こうした中で、大宰の華父督が孔父嘉の妻を気に入り、悪い噂を流した上で、孔父嘉は誅され妻も奪われ、主君の殤公も世を去りました。
孔父嘉は美人妻を持った負の部分を、一身に受けてしまったと言えるでしょう。
孔父嘉と宋の穆公
宋の穆公は自らの死を悟ると、大司馬の孔父嘉を呼び寄せる事になります。
兄の宣公が自分を立ててくれた事を理由に、宋の穆公は兄の子の与夷を立てて欲しいと孔父嘉に願いました。
春秋左氏伝には宋の穆公が孔父嘉に与夷を託したとする記述もあり、如何に信頼されていたのかが分かる記述でもあります。
孔父嘉は「群臣らは公子馮(穆公の子)を立てたいと思っております」と答えました。
当時の宋では穆公の後継者は定まっていませんでしたが、公子馮が後継者になるとする空気が強かったのでしょう。
しかし、宋の穆公が強く願った事で、孔父嘉も折れたのか与夷が宋の殤公として立つ事になります。
公子馮は鄭に向かいました。
孔父嘉は公子馮を後継者にしようとしており、宋の殤公から疎まれてもよさそうですが、献身的に仕えたのか、そのまま大司馬の位を続ける事になります。
国民の疲弊
宋の殤公の時代は、鄭との戦いの時代でもありました。
公子馮が鄭にいた事もあり、鄭との関係は悪化しました。
鄭の荘公が王命を奉じて斉や魯と組んで宋を攻撃したりもしており、苦しい戦いが続いたと言えるでしょう。
具体的な実績は不明ですが、孔父嘉は宋の大司馬であり、鄭との戦いでも何かしらの軍事行動を行っていたとみる事が出来ます。
しかし、宋は戦いに敗れたりもしており、国は疲弊し、国民の中にも孔父嘉に対する不満もあった様に感じています。
それでも、宋の殤公は孔父嘉を使い続けました。
美人の妻が災いとなる
魯の桓公の元年(紀元前711年)に、大宰の華父督が孔父嘉の妻を見かけて見とれた事が記録されています。
華父督は孔父嘉の妻を奪いたいと考え10年間で11回も戦争が起こった事を「孔父嘉が原因だ」と喧伝しました。
その上で、華父督は孔父嘉の邸宅を攻撃し、孔父嘉を討ち妻を奪っています。
宋の殤公は孔父嘉を殺された事を怒っており、孔父嘉が如何に重要な臣下だったのかが分かる記述でもあります。
しかし、華父督はあべこべに、宋の殤公を誅しました。
孔父嘉は美人の妻をもった為に、宋の殤公もろとも殺害されてしまったと言えるでしょう。
華父督は公子馮を即位させ、これが宋の荘公です。
華父督は諸侯に賄賂を贈った事で諸侯から咎められる事もなく、衛の荘公の宰相となりました。