
| 名前 | 魯の隠公 |
| 姓・諱 | 姫息姑 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前722年ー紀元前712年 |
| 一族 | 父:恵公 弟:桓公 |
| コメント | 摂政を全うしようとしたのに誅された。 |
魯の隠公は魯の君主となりましたが、あくまでも摂政という立場でした。
魯の恵公と宋の仲子の子である姫軌(魯の桓公)に後継者は定まっており、中継ぎの君主でもあったわけです。
魯の隠公の初期の頃は宋と親しみましたが、後に決裂すると鄭や斉と共に、宋や許を攻撃するなど戦果を挙げました。
世の中には後醍醐天皇の様に中継ぎとしての君主の役目を果たそうとしない人もいますが、魯の隠公は中継ぎの君主だと自覚しており、弟の姫軌に位を譲ろうと考えていましたが、羽父の思惑が入り交じり殺害されています。
魯の隠公は自分の役目を果たそうとしましたが、生を全うする事は出来なかったと言えそうです。
狐壌の戦い
魯の隠公(息姑)が公子だった時代に、鄭との間で狐壌の戦いが勃発しました。
魯と鄭は国が離れている様に思うかも知れませんが、魯は鄭の南の許に権益を持っており、狐城の戦いが勃発したと考えられています。
狐壌の戦いで息姑が総大将だったのかは不明ですが、息姑は鄭の捕虜になってしまいました。
鄭では大夫の尹氏の邸宅に幽閉しましたが、息姑は尹氏の守護神である鍾巫に祈りを捧げ帰国を願う事になります。
こうした事もあり、息姑は尹氏と共に帰国しました。
帰国してからの息姑は鍾巫の位牌を魯に立てる事になります。
息姑は尹氏の守護神である鍾巫に対する感謝も大きかったのでしょう。
戦いに敗れて捕虜となり帰国した息姑でしたが、そもそも鄭の近くで戦ったのであり、負けても仕方がないと判断されたのか、もしくは姫軌(魯の桓公)も誕生しておらず、後継者としての立場は揺らがなかったのではないでしょうか。
運命を左右する出来事
魯の恵公と声子の間に出来たのが、息姑(魯の隠公)であり、魯の恵公も後継者は息姑と決めていたと考えられます。
魯の恵公も息姑の地位を固める為か、宋から息姑の為に女性を迎える事になります。
これが宋の仲子でしたが、美人であった為に父親の魯の恵公は自分の妻にしてしまいました。
魯の恵公と仲子の間に誕生したのが、姫軌(魯の桓公)です。
当時は母親の実家の権勢が重要であり、宋から来た仲子の子である姫軌が太子となったわけです。
これが魯の恵公の晩年の出来事だった様であり、息姑は一転して太子の地位を失いました。
宋の方では魯の恵公が仲子を自らの妻にしてしまった事を問題視したのか、魯の恵公の末年である紀元前723年に魯と宋の間で黄の戦いが勃発しています。
魯の隠公は摂政となる
魯の恵公が亡くなると、息姑が魯の隠公として立ちました。
弟の姫軌が幼かった事で、魯の隠公が摂政として立つ事になります。
魯の隠公は魯の君主になりましたが、中継ぎの君主でもあったわけです。
ただし、魯の隠公は姫軌が誕生するまでは、魯の後継者として目されていたはずであり、政務に関しては、かなりの知識があったとみる事も出来ます。
因みに、魯の隠公の元年(紀元前722年)が春秋の始まりでもあります。
紀元前722年に蝗が発生しましたが、災害にまでは至らなかった記述が春秋左氏伝にあります。
他にも、春秋左氏伝には魯の国都の南門を造営するも、春秋には記録されておらず、公命ではなかったからだと記録されています。
魯の隠公と周辺国との関係
魯の隠公は即位すると、宋の穆公と宿の盟を交わしており、関係改善に務めました。
宋の方でも、仲子を勝手に娶ってしまったのは、魯の恵公であり、魯の隠公に対しては恨みも無かったのでしょう。
尚、春秋左氏伝の伝文の中には、魯の恵公が亡くなった際に、宋が魯を攻撃した記述もあり、宿の盟は魯と宋の戦争後の講和の会見だったのかも知れません。
魯の隠公は即位元年に、邾とも蔑の盟を行っており、祭伯も魯にやってきた話しがあります。
祭伯に関しては、祭国の君主とする説もある状態です。
ただし、紀元前721年に戎と潜で会合を行い、戎との友好の確認は行いましたが、盟約は断りました。
同年に魯の無駭が極に攻め込み、費伯がこれを滅ぼしたとあります。
魯の隠公が君主になってから、精力的に動いている様子が伺えます。
尚、魯の隠公の時代に小国である滕や薛も朝見に来ており、諸侯との信頼関係を大事にしていたのでしょう。
清の盟と衛の政変
紀元前720年に魯の隠公は、宋の殤公と会見を行おうとした話があります。
宋の穆公が紀元前720年に亡くなっており、魯の隠公は新たな君主となった宋の殤公に対し、温の盟を更新しようとしたのでしょう。
しかし、同年に衛の桓公が州吁に討たれ、急遽、宋の殤公と会見を行いました。
この後に、宋の殤公は州吁に協力し、衛、陳、蔡で鄭を攻撃しましたが、魯の隠公は衆仲の言葉に従い、鄭への攻撃を見送っています。
尚、州吁の政権は1年も持たず、州吁は陳の桓公や石碏により世を去りました。
魯の隠公に進言を行った衆仲は賢臣であり、仲子の廟が完成した時にも、魯の隠公の問いに対し、見事な答えを出しています。
漁夫の見物
紀元前718年に魯の隠公が漁の見物に行こうとしました。
この時に、臧僖伯が諫めますが、魯の隠公は聞き入れなかった話があります。
春秋左氏伝の君子は魯の隠公の行動を、首都の曲阜から遠い事などを理由に非難されています。
尚、臧僖伯は同年に亡くなっており、魯の隠公は思う所があった様で、葬式の格式を一つ上げました。
魯と鄭の和平
紀元前718年に鄭が宋を攻撃し、宋は魯に救援要請をしました。
この時に、魯の隠公は宋の窮地を聞き援軍を出そうとしますが、宋の態度が悪く魯の隠公は派兵を取りやめています。
こうした事情もあり、魯の隠公と宋の殤公はお互いを恨みあった話もあります。
魯の隠公は宋の行動に悪意を覚えたいのか、鄭に接近する事になります。
紀元前717年に魯に鄭の使者が来ました。
宋は鄭を敵視していましたが、魯の隠公は鄭と和平を結ぶ事になります。
鄭の荘公は東周王朝の卿士をしており、東周王朝と魯の関係も良好になったとみる事も出来るはずです。
同年に周の桓王は穀物が不足していると、魯の隠公に通告しており、魯の隠公は斉、宋、鄭、衛の諸国に穀物の購入を依頼しました。
春秋左氏伝の君子も、魯の隠公の行動を「礼に合している」と評価しています。
ただし、紀元前716年に邾の為に宋を攻撃した記述があり、魯宋関係も悪化はしましたが、この時点ではまだ破綻していなかったのかも知れません。
紀元前715年に鄭の荘公から要請があり、魯の許田と鄭の祊を交換しました。
ただし、許田と祊の交換は周の桓王を怒らす結果となった様です。
艾の盟
紀元前717年に魯の隠公は斉の僖公と会見を行い、艾の盟により講和しました。
春秋左氏伝には、これが斉との講和した最初であると記述されています。
紀元前716年には斉の僖公が夷仲年を魯に派遣しており、艾の盟の結束を、さらに強化しようとしました。
紀元前715年に魯の隠公は莒と浮来で盟を行い、紀との関係も改善しようとしています。
斉・鄭・魯同盟
紀元前714年に鄭の荘公が宋の殤公が東周王朝への朝見を怠っているとし、宋を咎めました。
鄭は宋を攻める事とし、魯の隠公は斉の僖公と防で会見を行っています。
鄭、斉、魯の三国は宋を管の戦いで破りました。
鄭は陥落させた郜と防を魯に贈った話があります。
尚、斉との戦いにおいて、魯の羽父が精力的に動いた話も残っています。
許を攻撃
紀元前712年に魯の隠公は鄭の荘公と郲で会見を行いました。
郲での会見は鄭の隣国である許を攻める為の相談です。
斉、鄭、魯の連合軍は許を攻撃し、許の荘公は衛に出奔しました。
この時に、斉の僖公が許の処置を魯に任せようとしますが、魯の隠公は次の様に応えました。
※春秋左氏伝より
魯の隠公「私は許が貢納を怠っていると貴君が申されたので、お供をしたまでです。
許は既に、罪に服しており、貴君の命令であっても従うわけにはいきません」
魯の隠公は斉の僖公の依頼を断りました。
斉の僖公は許を鄭に与える事になります。
因みに、斉の僖公が魯の隠公に許の処置を任せようとしたのは、魯が許の付近に権益を持っていた為だと考えられています。
尚、斉、鄭、魯の攻撃により許は一時的に滅亡しました。
魯の隠公の最後
紀元前712年に羽父は魯の隠公に姫軌を殺害する様に進言しました。
しかし、魯の隠公は次の様に応えました。
魯の隠公「先君は弟の姫軌が年少である事から、私を摂政にしただけなのだ。
今の状況を見るに、姫軌は成人したし、私は菟裘に宮室を作り引退し、国政は姫軌に譲ろうと思っている」
魯の隠公に野心はなく、あくまでも中継ぎの君主という事を理解しており、弟の姫軌に位を譲りたいと明言したわけです。
この辺りは日本史における花園天皇や、光明天皇に近い気質を持っていたと言えます。
魯の隠公は自らの摂政という立場を全うしようとしたとみる事が出来ます。
しかし、羽父は魯の隠公に話した内容が、姫軌の耳に入れば殺害されると恐れました。
羽父はあべこべに、姫軌に魯の隠公を讒言し、姫軌は羽父に魯の隠公の殺害を許しています。
魯の隠公は社圃で斎戒を行った後に、大夫の蒍氏の邸宅に泊まりますが、羽父は蒍氏の館を襲撃し、魯の隠公は殺害されました。
魯の隠公が亡くなった事で、姫軌が魯の桓公として立ちました。
尚、春秋左氏伝には魯の隠公の葬儀の記載がないのは、正式の喪礼の挙行が出来なかった為とあります。
魯の隠公は弟に国を譲るつもりが、野心家の羽父により命を落としてしまったと言えそうです。