
| 名前 | ペラヨ |
| 生没年 | 生年不明ー737年 |
| 在位 | 718年ー737年 |
| 一族 | 子:ファフィラ、エルメシンダ |
| 年表 | 722年 コバドンガの戦い |
| コメント | アストゥリアス王国の初代国王 |
ペラヨは西ゴート王国の貴族の生き残りであり、アストゥリアス王国を建国しました。
アストゥリアス王国は建国しましたが、国土は小さくイベリア半島の大半はウマイヤ朝の領土となっています。
それでも、コバドンガの戦いでウマイヤ朝の軍に勝利しました。
レコンキスタはペラヨの時代に始まり、700年に渡り戦う事になります。
ペラヨの出自
ペラヨは西ゴート王国の貴族出身であり、高官ファフィラ公の子と伝えられています。
また、ファフィラが最後の西ゴート王ロデリックの兄弟であったとする説もありますが、確定的ではありません。
いずれにせよ、ペラヨが西ゴート王国の上層部に近い立場にあったことは広く認められています。
ペラヨは父が統治していたアストゥリアス地方を何度か訪れており、親族も同地にいたため、地域社会から受け入れられやすい状況にあったと考えられています。
当時のペラヨは20代半ばであったとされ、地元住民の間で一定の期待が寄せられていたと伝えられています。
こうした背景から、アストゥリアス地方においてペラヨを指導者とする動きが強まりました。
西ゴート王国の高官の家柄であったことが、求心力の一因になったとみられます。
ペラヨが、アストゥリアス王国の建国に関わることになります。
アストゥリアス王国を建国
ペラヨは718年にアストゥリアスを建国しました。
ウマイヤ朝の勢力としても、アストゥリアス王国を放置しておくわけには行かず、西暦722年にコバドンガの戦いが勃発しました。
コバドンガの戦いでのペラヨは山岳地帯を利用したゲリラ戦に徹し、ウマイヤ朝の軍を退けています。
これにより非常に小さい領地ではありますが、アストゥリアス王国はイベリア半島に北に領土を確保する事になります。
ペラヨがコバドンガの戦いで敗れていたら、レコンキスタは起きず歴史は変わっていたのかも知れません。
ペラヨの死と王位継承
ペラヨについては、史料によって評価が分かれており、「西ゴート王国との連続性は史実としては確認しがたい」とする見解も存在します。
ペラヨ自身の出自にも不明な点が残りますが、イベリア半島北部にキリスト教勢力が存続したこと自体は確かな事実です。
ペラヨはイスラム軍との戦闘に勝利した後、アストゥリアス王国の初代君主として位置づけられるようになりました。
彼は自らを西ゴート王国の正統な継承者と主張し、後のレコンキスタの理念となる「西ゴート・スペインの復興」を掲げたとされています。
また、ペラヨは各地から避難してきたキリスト教徒を受け入れたと伝えられています。
ペラヨは西暦737年に亡くなり、子のファフィラが後継者となりました。
| ペラヨ | 次代:ファフィラ |