ソクラテスは、アテネ(アテナイ)に生まれたギリシアの哲学者です。
ソクラテスの生年月日ですが、紀元前469年頃に生まれ、亡くなった年は紀元前399年の4月27日となります。
哲学者の間では、ソクラテス以前とソクラテス以後で分けて考える人も多いと言えます。
ソクラテス以前の哲学者と言えば、タレスが万物の根源(アルケー)は水だと考えましたし、ヘラクレイトスは火だと言い、ピタゴラスは数だと言いました。
ソクラテス以前の哲学者は、「この世界は何で出来ているのか?」を追求した人が大変多かったわけです。
それに対して、ソクラテスは人間の内面にスポットを当てる事になります。
ソクラテスで有名な「無知の知」なども人間の内面に関する言葉となっています。
尚、ソクラテスの弟子にはプラトンがいますし、孫弟子にはアレクサンドロス大王の家庭教師となり「万学の祖」と呼ばれたアリストテレスがいます。
他にも、樽の中で生活し「狂ったソクラテス」の異名をとるディオゲネスなどもいました。
因みに、ソクラテスの弟子と言えども、全員が成功し立派な人になったわけでありません。
ソクラテスの弟子の中には、三十人僭主の過激派であったクリティアス、外見が美しかったがペロポネソス戦争で敗北の原因を作ったアルキビアデスなどもいたわけです。
尚、ソクラテスの最後と弟子の失敗はリンクしています。
今回は、ギリシャの哲学者であるソクラテスを解説します。
因みに、ソクラテス自身は書物は残していません。
それでも、プラトンが書いたとされる「ソクラテスの弁明」などにより、ソクラテスがどの様な人物だったのか知る事が出来ます。
当時のギリシアの状況
ソクラテスを語る上で欠かせないのが、当時のギリシャの状況です。
ペロポネス戦争で兵士として参加
ソクラテスが38歳の時に、ペロポネソス戦争が起こります。
ペロポネソス戦争は、ギリシャの有力なポリスであったアテネとスパルタの戦いです。
アテネは、ペリクレスが民主制を徹底させて民主的な政治を行っていましたが、スパルタは世界的にも稀な軍事国家であり強さこそが正義の様な政治を行っています。
スパルタでは芸術、哲学、美食などは全て人間を軟弱にさせると考えたスパルタ教育が行われていました。
もし仮にソクラテスが古代ギリシアの2大ポリスの一つであるスパルタで生まれていたら、後世にまで名を残す事はなかったはずです。。
アケメネス朝ペルシアがギリシャに攻め込んで来たペルシア戦争では、アテネとスパルタは協力して大国であるアケメネス朝ペルシアを退けています。
しかし、アケメネス朝ペルシアの脅威が去るとアテネとスパルタはギリシャのポリス郡の覇権を巡って対立していったわけです。
アテネを中心とするポリスらをデロス同盟と呼び、スパルタを中心とするグループをペロポネソス同盟と呼び対立しました。
アテネとスパルタの対立が頂点に達し、ソクラテスが38歳の時にペロポネソス戦争が始まったと言われています。
哲学者のソクラテスに戦争は無縁だと思うかも知れませんが、アテネには兵役があったわけです。
ソクラテスは兵役により重装歩兵としてペロポネス戦争に参加した記録が残っています。
後年になりますが、ラケス将軍の言葉でソクラテスは立派に戦っていたとあります。
それを考えると、ソクラテスは知力だけではなく体力もあったのでしょう。
当時の重装歩兵の陣形でもあるファランクスもソクラテスはやっていたと思われます。
後述しますが、ペロポネス戦争は27年も続きソクラテスの弟子であったアルキビアデスの策であるシケリア遠征が失敗しアテネはスパルタに敗北しました。
さらに、ペロポネス戦争後にスパルタの息が掛かった三十人政権(三十人僭主)が出来ると、ソクラテスの弟子であったクリティアスやカルミデスが政治の実権を握りますが、短期間で滅んでいます。
尚、ソクラテスはペロポネス戦争の時に戦場ばかりに言っていたわけではなく、アテネ市民として様々な知識人と問答を行っていたようです。
ソフィストの台頭
ソクラテスの時代のアテネでは、ソフィスト達が台頭していました。
ソフィストは主に弁論術を教える事でお金を貰い生計を立てている人たちです。
ソフィスト達は「弁論術を身に付ければ富も名誉も思いのままだ」と主張します。
実際に政治の場や仕事などで雄弁に主張すれば、出世も出来るしお金持ちになれると説いたわけです。
ソフィスト達をもてはやされる雰囲気がアテネにあり、そうした時代にソクラテスも生まれています。
ソクラテスもソフィストとして扱われる事もありますが、ソクラテスは弟子たちがいてもお金を取らなかった為に、プラトンはソクラテスはソフィストではないと主張しています。
尚、同時期の哲学者であるプロタゴラスは完全にソフィストであり、お金を貰ってノウハウを教えています。
そして、ソフィストたちは自分が賢いとアピールしますし、アテネ市民から全てを知っている賢者だと言われた人もいるわけです。
こうした時代にソクラテスは活動をしています。
後に、ソクラテスはソフィストたちを論破し、如何に無知であるかを知らしめる事を日課とする様になっていきます。
「知識とは何か?」「賢いとは何か?」などを探求したはずであり、答えようのない問いも数多くあったのでしょう。
因みに、ソクラテスは全ての出来事は定義づけが出来るとも言っています。
デルフォイの神託が運命を変える
ソクラテスの運命を変えたのがデルフォイの神託です。
ソクラテス以上に賢い者はいない
ソクラテスの弟子であるカイレフォンが、デルフォイにあるアポロン神殿に行きデルフォイの神託を受ける事になります。
デルフォイの神託の内容は次の様なものです。
「ソクラテス以上の賢者は存在しない」
現代人の感覚であれば「おみくじの様なお告げ」に思うかも知れません。
しかし、当時のギリシアにおいてはデルフォイの神託は非常に重要視されていました。
デルフォイの神託の結果により、政治のやり方や戦争をするのか?などの重要事項が決められるわけです。
さらに、デルフォイ地方の領有権を巡って、同盟を結んだり争いも起きたりする聖地となっています。
デルフォイの神託は、古代ギリシアにおいては、物事を決めるのに最重要機関でもありました。
ソクラテスは神を信じていた
ソクラテスは神を信じていた人物です。
ソクラテス以前の哲学者であるタレスやアナクシマンドロスは、神はいないものとしていました。
神はいないものと考えて「万物の根源は水だ」とか「数字」だとか「土」だとか様々な事を言っていたわけです。
それに対して、ソクラテスはバリバリに神を信じています。
神に比べれば自分はちっぽけな存在であるとも考えていたようです、
困ったソクラテス
ソクラテス自身は、かなり謙虚な人物であったようで、デルフォイの神託を聞いて困り果ててしまいます。
ソクラテスは「自分よりも賢い者など幾らでもいる」と考えていたからです。
しかし、ソクラテスは神を信じているわけで、デルフォイの神託を否定してしまったら神を否定する事になってしまいます。
デルフォイの神託を否定する事は、神への冒涜となりソクラテスには絶対に出来ない事でもあります。
そこでソクラテスが出した答えが、デルフォイの神託に反証を行うというものです。
つまり、理論を持ってデルフォイの神託を否定します。
そして、神様に対しては次の様に釈明する事を考えました。
私(ソクラテス)は、矮小な人間であり神様が仰った「ソクラテスよりも賢い人間はいない」と言うのは何かの間違いではないでしょうか?
この様に根拠を持って神に投げかければ、神を冒涜する事にならないと考えたようです。
デルフォイの神託から、ソクラテスがソフィスト達を論破する生活が始まる事になります。
ソクラテスの探求が始まる
ソクラテスの自分よりも賢い者を探す探求が始まります。
問答法を使う
ソクラテスの哲学を理解する上で重要なのが、問答法です。
相手と問答を行う事で相手の矛盾や知識の曖昧さを指摘していきます。
問答法に関しては、産婆法とか産婆術とも呼ばれています。
正しい知識を生み出すための過程を作る事から産婆法というそうです。
因みに、ソクラテスの父親であるソプロニスコスは彫刻家(石工)ですが、母親のパイナレテは産婆さんだったとも言われています。
ソクラテスの産婆法なる問答は母親のパイナレテの影響と考える人もいます。
尚、ソクラテスの先生は、アルケアロスだと言われています。
もしかしてですが、アルケロスもソクラテスに問答法で教えたのかも知れません。
ソフィストたちの恨みを買う
ソクラテスですが、ギリシャの賢人と呼ばれるソフィストや軍人、政治家、詩人などと問答を行うのが日課となります。
ソクラテスは、彼らの発する言葉に疑問を投げかけたりして、相手がどれだけの事を知っているのか?を確かめたりしています。
この作業を行っているうちに、ソクラテスはある結論にたどり着きます。
人間は「知っている様で実は知らない事ばかりなのだ」という事です。
専門家であれば、専門分野については詳しいですが、それを持って全ての事を知れるわけではないという事を悟っていきます。
ここで有名な無知の知をソクラテスは見つける事になるわけです。
しかし、ソフィスト達は、ソクラテスの論破されて面目を失ったり、人々から評価を下げた人も多々いたのでしょう。
もちろん、ソフィスト達は賢者として自分をプロデュースし客を集めてビジネスとしています。
ソクラテスに論破されてしまえば、商売も上手く行きません。
そうした事情もあり、ソクラテスを恨んだ人も多くいました。
ソクラテスとしては、「自分は知らないという事を知っている」という事になり、その分だけ皆よりも賢いのではないか?と考えたとも言われています。
ここから有名な無知の知(無知の自覚)が生まれたそうです。
多くの人が「知っていると思っている事を実は知らない」という事に気が付く事になります。
若者たちのヒーローとなる
ソクラテスは若者たちからは人気があったようです。
普段は威張っている様なソフィストや政治家、詩人、軍人などを次々と論破していくからです。
ソクラテスの弟子になる者やソクラテスの真似を始める者まで現れたと言います。
ギリシャの年配の方から見れば、ソクラテスは若者を扇動する厄介な人に見える場合が多かったようですが、一部の若者たちからは絶大なる人気があった事は確かなようです。
後にソクラテスは訴えられて裁判に掛けられてしまうのですが、そこでの罪状の一つが「青少年を惑わせた」となっています。
ソクラテスの真似を初めた若者が多く出た事も原因となっているようです。
ソクラテスは、当時としてはかなり極端な事をしていたわけであり、刺さる人にはかなり刺さった事が分かります。
答えが出なかった問答もかなりある
ブログやユーチューブでソクラテスを調べると、ソクラテスがソフィストを相手に論破しまくった事ばかりが強調されています。
実際に、論破された人もかなり多くいた事は事実でしょう。
しかし、答えが出なかったりする場合も多かったようです。
ソクラテスの有名な問答で「勇気」についてと言うのがあります。
アテネの多くの戦争で活躍したラケス将軍やニキアスの和約で有名なニキアスとの問答は、最終的には結論は出ませんでした。
問答の中でラケス将軍は勇気を「敵から退かずに戦う事」だと主張します。しかし、わざと逃げて敵を誘い出す戦い方もあるわけです。
それらをソクラテスに指摘されているうちに、ラケス将軍は勇気は「忍耐」だとします。
しかし、何も考えずに耐えているのと、作戦があり思慮深く耐えているのとでは訳が違います。
そこを指摘されるとラケス将軍も難しくなってくるわけです。
話を進めますが、ニキアス将軍の方は勇気を「恐ろしいものと恐ろしくないものを見分ける知識」だと定義します。
しかし、ラケス将軍は勇気と知識は別だと反論するわけです。
ここでソクラテスも問答に加わりますが、結局は勇気の答えは出ずに問答は終了するわけです。
ソクラテス自身も、勇気への探求は失敗だったという事を述べています。
さらに、ソクラテスは問答の最中に、自分の問いが悪かったなども言っているわけであり、単なる相手を論破しようとしているわけではない事が分かります。
ただし、ソクラテスは勇気の定義は、全ての勇気に関わる事に当たる様な発言もあったとされています。
無知の知は勘違いをされている
多くの日本人は無知の知を勘違いしている様に思います。
プラトンやソクラテスの弟子たちが書いた書物には、無知の知とは一言も書かれていません。
知らないと言う事を知っているとする無知の知は、日本人が作った造語だとも言われています。
無知の知の訳し方に否定的な人もいるわけですが、その理由としては「無知の知」と訳してしまうと、知らないという事を知っているで終わってしまうからです。
ソクラテスとしても、「自分には知らない事も多くあるんだ」だけで終わってしまったら不本意だと感じるでしょう。
先に紹介したラケス将軍やニアキス将軍の勇気の話は、結論は出ませんでしたが、ソクラテスは最後に「自分たちも現状に満足せずに学ぶ努力をしよう」と提案しているわけです。
それを考えると、知らないという事を知っているだけで終わりではなく、学ぶ努力をする事が大事だとソクラテスが考えている事が分かります。
無知の知で重要な事は、自分が無知で知らない事を認識して学び続ける事にあるように感じます。
無知の知の本質は、「知らないという事を知っている」ではなく、知らないからこそ、もっと学び続けよう!という事なのでしょう。
その為、人によっては無知の知ではなく、無知の自覚が正しい訳だとする専門家もいます。
弟子の失敗
ソクラテスの弟子であるアルキビアデスとクリティアスの大失敗を解説します。
アルキビアデスのスパルタ亡命
最初の方で話しましたが、ソクラテスの弟子にアルキビアデスという人物がいます。
アルキビアデスは、ペロポネソス戦争の終盤で、シケリア遠征を主張して大失敗をしています。
ただし、アルキビアデスは傲慢で政敵が多く戦う前にアテネを出奔し敵国であるスパルタに亡命しています。
スパルタに亡命したアルキビアデスは、アテネの情報を漏らしたとも言われていて、シケリア遠征でアテネは大敗北となりました。
因みに、勇気についてラケス将軍と共に勇気を論じたニキアスは、シケリア戦争で活躍もしましたが、捕虜となり処刑されています。
ソクラテスは訴えられるわけですが、その原因の一つがアルキビアデスが提案したシケリア遠征の失敗とスパルタへの亡命だとされています。
クリティアスの失政
ペロポネソス戦争は、シケリア遠征の大敗北が決定的となりアテネはスパルタに敗北しています。
その後にスパルタがバックにいる少数政党である三十人政権が出来ます。
三十人政権の中には、かつてソクラテスの弟子だったと言われた過激派のクリティアスやカルミデスなどもいました。
クリティアスは恐怖政治を行った事から戦いが起きています。
クリティアスとカルミデスは、ムニュキアの戦いで戦死しました。
クリティアスは過去にソクラテスの弟子であった事から、ソクラテスにも原因があると感じた人もいたようです。
ただし、ソクラテス自身はクリティアスのやり方を「次々に牛の数を減らした牛飼い」と皮肉った事を言っています。
カルミデスについても簡単に述べますが、クセノポン(ソクラテスの友人・弟子)によれば、ソクラテスは一度だけカルミデスに政治の世界に入る様に言ったとされています。
カルミデスは、その時にしぶりながらも政界に入る決断をします。
それを考えれば、ソクラテスの責任が全くないわけではないのかも知れません。
ソクラテスの最後
ソクラテスの最後を解説します。
裁判で訴えられる
ソクラテスを恨みに思っていた人たちが、ソクラテスを訴えて裁判になってしまいます。
罪状としては、下記の通りです。
・ポリス(国)が信仰する神を敬わなかった
・新しい神を崇拝しだした
・若者を扇動した
ポリスが信仰する神々を敬わなかったと、新しい神を崇拝しだしたとする罪状は、言いがかりではないか?と考えられます。
ソクラテスは神を信じていましたし、信じていたからこそ「デルフォイの神託」を反証したはずです。
神の教えにそった道が、多くの方と問答をする事だったと考えるべきでしょう。
アテネ市民が問題にしたのは、若者を扇動した事ではないかと思われます。
先に述べた様に、ソクラテスの教えを受けた事があるアルキビアデスやクリティアスは失敗しているわけです。
それにも関わらずソクラテスは問答の活動を縮小する事もしていませんし、相変わらずアテネの人々に対して活動を行い続けています。
これに対して、「ソクラテスは危険だ!」という風潮が出来てもおかしくはありません。
この様な背景もありソクラテスは訴えられて裁判となります。
雄弁に語るソクラテス
当時のアテネは陪審員制度となっていました。
500人の市民が陪審員となり有罪かを決めるわけです。
ここでソクラテスが空気を読み雄弁に語れば、死罪にはならなかったのでしょう。
しかし、ソクラテスはいつもの様に自分を主張した事で陪審員の方々を味方にする事が出来ませんでした。
却って敵を作ってしまったとも言われています。
罪を軽くする事を目的に自分の生き方を曲げるのは、ソクラテスには出来なかったのでしょう。
それでも、有罪にするか無罪にするかは半々くらいで、僅差で有罪が決まったとされています。
有罪が決まった後に、ソクラテスが罪が軽くなるように雄弁に語ればよかったのかも知れません。
しかし、ここでもソクラテスは自分を曲げなかった為に、結局は死罪となってしまいます。
逃亡しないソクラテス
ソクラテスが処刑される事が決まると、弟子たちは逃亡する事を勧めます。
ソクラテスは冤罪であるとし、弟子たちは逃亡を勧めたわけです。
さらに、アテネ市民の中には、ソクラテスの熱狂的なファンも多く逃亡を願った話もあります。
牢屋の番人でさえ、ソクラテスが牢獄からの脱出を願い牢屋にカギを掛けなかったとも言われています。
しかし、ソクラテスは罪を受け入れてドクニンジンを飲み干すわけです。
ドクニンジンを飲んだソクラテスは体が硬直し冷たくなったとされています。
最後はソクラテスの旧友であるクリトンが言葉を掛けたが、ソクラテスは返事も出来ずに亡くなったとされています。
ソクラテスは目を開いたまま亡くなったとされていて、クリトンが目を閉じてあげたそうです。
これが後世に名を残した偉大な哲学者であるソクラテスとの最後となります。
因みに、ソクラテスには心酔していた人も多く「惜しい人を亡くした」とアテネ市民が言った記録もあります。
ソクラテス自身はソフィストに対しては、批判的でありメンツを潰された人も多かったようですが、見ていて痛快だと感じる人もいたのでしょう。
ソクラテスの死に対する考え方
ソクラテスの死に対する考え方の話が残っています。
現代人も含めて人間が亡くなれば、多くの人が悲しみますし死を恐れるわけです。
しかし、ソクラテスは違っていました。
「誰も死んだらどうなるのかは分からないはずであり、よく分からない物を恐れるのは変だ」と感じていたようです。
それでも、死んだら何も無くなり無になるのか、それか別の世界に行くのではないか?とする考えはあったとされています。
しかし、何も無くなるのか別の世界に行くのかに関しては、無頓着であったようです。
死に関しての考え方はソクラテスらしいと自分は考えています。
ソクラテスが書物を残さなかった理由
ソクラテスがどの様な人物だったのか?に関しては、今でも議論がなされています。
ソクラテスは書物は残しませんでした。多くはプラトンが書いた書物に登場する事で現代に伝わっています。
プラトンが著した書物は紀元前にも関わらず、現在もほぼ損失する事もなく伝わっているわけです。
ソクラテスが今現在も名が廃れる事もなく残っているのは、プラトンを始めとした弟子たちの活躍のお陰とも言えるでしょう。
プラトンがなぜ書物を残さなかったかですが、文字を残してしまうと思考が硬直化するからだと言われています。
現在では、地球は丸い事は常識ですが、過去には地球は平面であり、地球の端には滝の様な物があると考えられていた時代もあったわけです。
これらの事は書物に書かれていた事であり、それにより人々の頭は硬直してしまった事例があります。
ソクラテスの孫弟子である万学の祖と呼ばれたアリストテレスは、物体は重たい方が落下速度が速いと書物に書き残しています。
それが常識だとして長い間信じられてきたわけです。
しかし、ガリレオガリレイがピサの斜塔から鉄の塊とリンゴを落としてみたら、落下速度は同じだという事も明らかになりました。
この様に文字に書き示してしまうと、思考が硬直化する問題がおきますし、1年後と現在で状況が変わる場合もあり、ソクラテスは文字を残すのを嫌った説も有力です。
現在の状況にフィットする問答が最適だと考えたのでしょう。
ソクラテスの名言と逸話
ソクラテスの名言や逸話で印象に残った事を紹介します。
クサンティッペは悪妻なのか?
ソクラテスの妻はクサンティッペという女性です。
クサンティッペは、悪妻として名が通っている人でもあります。
ソクラテスに罵声を浴びせた後に、水を掛けた話などもあります。
ただし、これに対してソクラテスは「雷の後には、雨はつきものだ」と言った話も残っています。
クサンティッペのやる事にソクラテスは皮肉ぶった言い方をする事が多いのですが、近年の考え方として、おかしいのはソクラテスでありクサンティッペはまともな人だったとする見方もあります。
ソクラテスは、ニートだった説もありお金も稼がないのに、街に出かけて行って様々な人と問答を行うわけです。
さらに、弟子がいてもお金を取る事をしません。変人とも考えられるソクラテスの行動からしたら、クサンティッペの態度も仕方がないと考える人もいます。
因みに、ソクラテスが裁判により有罪が決まり獄中に入った時は、クサンティッペは嘆き悲しみ取り乱した話もあります。
最後まで離婚もしなかった事を考えると、案外、上手くやっていたのかも知れません。
ただし、ソクラテスは「クサンティッペと上手くやれるのであれば、誰とでもうまくやれる」と言った話もあります。
それでも、ソフィスト達を論破し多くの人の恨みを買ってしまった事を考えると、誰とでも上手くやったとは言えない部分もあるでしょう。
悪法も法なりは、嘘が混ざっていると感じる
ソクラテスの有名な言葉で「悪法も法なり」と言った話があります。
悪法も市民が作った法律であれば、従うのが筋だと考えて判決を受け入れた説です。
専門家の中にも指摘する人がいる様に、ソクラテスの性格を考えると「悪法も法なり」とは思わなかった様に感じています。
その理由ですが、ソクラテスの性格であれば、「この法律は正しいのか?」などを論じる事も考えられるのではないでしょうか?
それを考えると、「悪法は法なり」とは考えなかった様に思います。
「悪法も法なり」という言葉は、権力者達の「あのソクラテスでさえ法律を守っているのだから、お前らも守れ」という意図が含まれているのでしょう。
これが有望だと自分は感じています。
ただ生きるのではなく善く生きる
ソクラテスの名言として最も有名なのが、「ただ生きるのではなく善く生きる」と言うのがあります。
これは自分の中では、毎日を充実させて成長させる言葉だと思っています。
昨日よりも今日の思考で、昨日よりも成長する事をソクラテスも言っている様に思ったわけです。
私も「善く生きる」という言葉は大事にしたいと考えています。
尚、私の個人的な考えなのですが、ソクラテス時代のソフィスト達の弁論が上手くさえなれば成功できるという考えには反対です。
ソクラテスのいう善く生きるにも反している様に感じました。
何故かと言えば、内部の事であれば雄弁に語れば採用される可能性もあります。
しかし、戦いなどであれば雄弁に語った戦略が最高だとは限らないからです。
むしろ、他国との戦いになれば雄弁に語った戦略や戦術よりも、本当に現場で使える方法を採用するべきでしょう。
現代の会社内でも、声を大きく発言した者やプレゼンの上手い人が求められますが、やはり最終的には内容が伴っていないと会社の利益を上げる事は出来ません。
それを考えると、ソクラテスの時代の一部のソフィストの考えた方に自分は批判的な考えを持っています。
尚、ソクラテスの問答法などを考えてみると、思考タイプ的には現代だとマイケルサンデルの様な人が当てはまるのではないかと感じました。