前漢

劉恭(少帝)は幼くして即位するも廃位させられた

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宮下悠史

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名前劉恭(りゅうきょう)
別名少帝恭
生没年生年不明ー前184年
在位前188年ー前184年
国前漢
一族父:恵帝 義母:張皇后
コメント呂氏の傀儡になる事に反発し廃位させられた。

劉恭は前漢の三代目の皇帝です。

父親の恵帝が崩御した事で、張皇后の子として即位しました。

しかし、劉恭は呂后が無理やり皇帝にしてしまった部分があり、後に劉恭にも知れ渡る事になります。

自分の出生の秘密を聞いた劉恭は憤りますが、これを聞いた呂后により幽閉され廃位へと進み最後を迎えました。

尚、一般的には前漢の三代目皇帝の劉恭とされていますが、実際の所は「名前は劉恭ではなかった」とする説もあります。

名前が分からず「劉某」と書いてあったのが間違えて「劉恭」と書かれ、そのまま名前が劉恭になってしまったとする説もあるという事です。

この記事では混乱を避けるために「劉恭」の名前で統一しました。

劉恭の即位

劉恭の出自は不明な点が多いです。

まず皇帝になった人物にも関わらず、本当の母親の名前がよく分かっていません。

それでも、恵帝の子という事になっています。

当時は呂后が実権を握っており、恵帝ではなく呂后が政治を行っていた時代です。

こうした中で、前漢の恵帝が紀元前188年に崩御しました。

恵帝と張皇后の間には子がいませんでしたが、劉恭が突如として張皇后の子となり、皇帝として即位したわけです。

これが少帝です。

劉恭が前漢の皇帝として即位すれば、その生母が実権を握る可能性もあり、呂氏の権力が揺らぐ事になります。

呂后としては実権を握り続けたいと考えており、劉恭の実母を殺害し張皇后の子として即位させたと考えられています。

尚、張皇后は呂后の孫であり、張皇后の子が劉恭であれば、呂氏の権力を維持する事が可能でした。

前漢では張辟彊の進言を陳平が取り入れ、呂産、呂禄、呂台らが長安城の軍隊を握っており、劉恭の時代も呂后が政治を行う事になりました。

劉恭の反発

劉恭は皇帝として即位しますが、幼少だった事もあり、お飾りの皇帝でしかありませんでした。

こうした中で劉恭の耳に、自分が張皇后の本当の子ではないと知ることとなります。

さらに、自分の実母が殺害された話も知りました。

劉恭は憤り「太后(呂后)は私の母を殺害し、私を引き取るような事をしたのだろうか。私はまだ子供だが壮年になったら乱を起こしてやる」と述べたわけです。

劉恭の言葉が呂后の耳に入る事態となりました。

当然ながら、彼女にとってみれば劉恭の言葉は許せるものではなかったわけです。

劉恭の廃位

呂后は劉恭の発言を恐れ、帝を永巷に幽閉しました。

永巷に劉恭は幽閉されていましたが、呂后の方では「帝は重病である」と言いふらしたといいます。

劉恭を利用して乱を起こす者が出る事を恐れた処置なのでしょう。

誰にも劉恭には会えなくなりますが、呂后は朝廷で次の様に発言しました。

※史記 呂后本紀より

呂后「天下をたもち万民を治めるものは、万民を覆うこと天の如く、これを容れることは地の如くでなければならない。

天子は人民を安んじ、人民は喜んで天子に仕える。

両者の疎通ができてこそ天下は治まるのである。

今の皇帝は病が長く回復する事が出来ない。

天下には過失や混乱が起きており、宗廟の祭祀に仕えることができていない。

このような者に天下を任せられない。

天子を代えようと思う」

呂后は表面上は劉恭の病を問題視し、天子を代えようとしたわけです。

呂后の話を聞いた群臣らは「皇太后は天下、宗廟の為に国家安泰の道を考えておられます。私たちは従うだけでございます」と納得したわけです。

これにより劉恭の廃位が決定しました。

劉恭の時代は呂氏の力が強く逆らう者は皆無だったわけです。

それでも、呂氏に対する劉氏の反発もあり、皇帝の劉恭に吹き込み何とか劉氏の天下に戻したいと考えている者も多かったのでしょう。

呂后の方でも張敖や呂台を王にした後に、劉章や劉郢客を厚遇し、劉氏の反発を抑えようとしましたが、全てを抑え込むのは無理だったとみる事が出来ます。

劉恭の最期

劉恭の廃位が決定すると、呂后にとってみれば用済みの存在となりました。

このまま劉恭を生かし続け、反呂氏の勢力と結びつくのも防ぎたかったはずです。

史記によると呂后が帝を殺害したとあり、劉恭は廃位が決まってから直ぐに殺害されてしまったのでしょう。

劉恭が亡くなると、劉弘が即位しました。

しかし、劉弘も呂氏の傀儡でしかなく、劉氏が実権を取り戻すのは、文帝(劉恒)の時代を待たねばなりませんでした。

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