
張辟彊は張良の子で、張不疑の弟でもあります。
父親の張良の留侯の位は、兄の張不疑が継ぎました。
史記や漢書に張辟彊の逸話が掲載されています。
張辟彊は恵帝が亡くなっても涙を流さない呂后を見て「別の心配がある」と心を読みました。
ここで張辟彊は陳平に呂氏の一族を重用する策を提示し、陳平は実行に移す事になります。
この策により呂后は権力を握り続けますが、重臣らの大粛清は行いませんでした。
張辟彊の策は前漢の有力者らの命を救ったとも言えそうです。
後に陳平や周勃らは呂氏を排除し、文帝を立て漢王朝を存続させていますが、元を正せば張辟彊の策があったからとなるでしょう。
逸話は一つしかありませんが、史記にも記録されており、重要な役目を果たしました。
張辟彊の進言
前漢の恵帝は23歳の若さで崩御し、呂后は哭礼は行いますが、涙を流さなかったわけです。
この様子を群臣たちと共に見ていたのが、15歳で侍中の張辟彊でした。
張辟彊は側にいた陳平に、次の様に述べています。
※史記呂后本紀より
張辟彊「太后(呂后)には、恵帝しか男子はおりません。
恵帝が崩御し哭礼は行っていますが、悲しまぬのは何故だか分かるでしょうか」
張辟彊に尋ねられた陳平は「なぜなのか」と問うと、次の様に応えています。
張辟彊「帝には成人した子がおらず、太后らは貴方たちを恐れているのです。
貴方は呂台や呂産を将軍に任じて南軍と北軍を預け、呂氏一族を朝廷で重用すれば、太后も安心するでしょう。
これで、貴方たちも禍を受けなくて済みます」
張辟彊は哭礼を行っても涙を流さない呂后を見て、自らの権力が揺らぎ群臣らが制御できなくなるのを恐れていると察知したのでしょう。
知者である陳平であっても見抜けない呂后の本心を、張辟彊は見抜いたとも言えます。
張辟彊は呂台や呂産を筆頭に、呂氏の者達を重用する様に進言し、陳平は実行に移しました。
呂后は大いに喜び今度は涙を流し、一人息子の恵帝の死を悲しんだと言います。
前漢では劉恭が皇帝になりますが、幼かった事もあり、呂后が引き続き政治を行う事になりました。
張辟彊が人の心理を読むのが巧みだったと言えるでしょう。
張辟彊の評価
張辟彊ですが、15歳で呂后の本心を読みとり、陳平に進言するなど神童と言ってもよいレベルの人物にも見られます。
しかし、張辟彊の逸話が掲載されているのは、ここだけであり史記や漢書に伝が立てられているわけでもありません。
前漢の文帝が李広の武勇を見て「高祖(劉邦)の時代に生まれていたら万戸侯になれた」と述べた話があります。
これと同じ様に、張辟彊も楚漢戦争の時代であれば、もっと活躍の場があり、世に名が広まった可能性もあるのではないでしょうか。
張辟彊には兄の張不疑がおり、失脚し国は除かれたとあります。
この時に、張辟彊も一緒に失脚した可能性もある様に感じています。
ただし、記録はなく張辟彊の最期なども一切分かっていません。