
名前 | 朝倉教景(あさくらのりかげ) |
別名 | 小太郎、孫右衛門、美作守、心月宗覚(法名) |
生没年 | 1380年ー1463年 |
時代 | 南北朝時代ー室町時代 |
一族 | 父:朝倉貞景 母:竹庭良岩(法名) 兄弟:頼景 |
子:家景、将景、織田久長の妻 | |
コメント | 朝倉氏として初の将軍家からの偏諱を賜う |
朝倉教景は越前朝倉氏の第五代の当主となります。
朝倉貞景の子でもあります。
この時代は将軍家の足利義教と鎌倉公方の足利持氏がお互いを敵視していた時代でもあります。
こうした中で永享の乱が勃発しますが、朝倉教景は結城合戦で大活躍しました。
足利義教にとっては足利持氏を排除できた事を高く評価したのか、朝倉教景に「教」の文字を与えています。
朝倉氏の中で将軍家から偏諱を賜わったのが、朝倉義教が初だと言われています。
こうした事情から朝倉教景は朝倉氏の中でも特に評価が高い人物となっています。
ただし、朝倉教景の史料自体は非常に少なく長生きはしましたが、実績は非常に分かりにくい人物でもあります。
関東での戦い
1438年に鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立が頂点に達しました。
時の将軍足利義教は足利持氏を苦々しくて見ており、上杉憲実との対立を利用し関東への派兵を決定する事になります。
これが世にいう永享の乱であり、朝倉教景も関東に出兵する事になりました。
結城合戦が行われると、朝倉教景は足利持氏の二人の遺児を捕らえるなど、大きな功績を挙げたわけです。
将軍家から初の偏諱
朝倉教景は朝倉氏の中で将軍家から初の偏諱を賜わった人物でもあります。
足利義教は足利持氏を危険視しており、結城合戦で大功を立てた朝倉教景を高く評価したのでしょう。
将軍家からの偏諱と言えば、足利尊氏(高氏)から、朝倉高景や朝倉氏景は偏諱を賜わったともされています。
しかし、近年の研究では朝倉高景は斯波高経からの偏諱であり、朝倉氏景は斯波氏頼からの偏諱だと考える専門家が多いです。
それらを考慮すると、将軍家から最初に偏諱を得たのは朝倉教景なのでしょう。
朝倉氏の中で「教景」の名前は非常に縁起がよいものであり、子の朝倉家景や朝倉孝景(英林)なども朝倉教景と名乗っていた時期があります。
尚、朝倉氏の中で朝倉教景を名乗った人物が複数名いる事も分かっています。
朝倉教景の最後
朝倉教景の寿命は長く寛政四年(1463年)に84歳で亡くなったと言います。
朝倉氏の当主は長男の朝倉家景に譲ってはいましたが、朝倉家景の方が先に亡くなってしまいました。
朝倉教景の法名は心月宗覚であり、老後は一食卯斎と呼ばれ、戒律を守り午前中に一食摂るだけだったと伝わっています。
現在では一日一食が長生きの秘訣だという人もいるわけであり、自ら茶を挽き飲んでいた話もあり、晩年の朝倉教景は健康的な生活をして過ごしたのでしょう。