室町時代

朝倉貞景(第四代)は30年以上も当主の座を保つ

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宮下悠史

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名前朝倉貞景
別名朝倉為景
生没年1358年ー1436年
時代南北朝時代ー室町時代
一族父:朝倉氏景 兄弟:東郷正景、中島景康
子:教景、頼景
コメント当主の座に30年あったにも関わらず不明な点が多い

朝倉貞景は越前朝倉氏の第四代当主になった人物です

第九代当主も貞景であり、注意が必要だと言えるでしょう。

朝倉貞景は足利義持の時代に、姉小路尹綱が飛騨で兵を挙げた事で討伐軍の一員となりました。

しかし、朝倉貞景が姉小路氏の討伐でどの様な功績を残したのかも不明です

朝倉貞景、教景(第六代)、家景の時代は分かっている事が殆どなく、朝倉氏の空白の60年に入ってしまったとも言えるでしょう。

当時の朝倉氏は越前守護の斯波氏に睨まれており、活躍の場が与えられなかった可能性もあります。

尚、朝倉貞景の時代に本拠地を一乗谷に移したのではないかと考える専門家もいます。

朝倉貞景の分かっている情報が極めて少ないと述べましたが、それでも、朝倉貞景は朝倉氏の当主を30年以上も続けた事になります。

朝倉貞景の一族

朝倉貞景の弟に東郷正景(美作守)・中島景康(周防守)がいる事が分かっています。

東郷正景は東郷床を名字とし、中島景康は東郷中嶋から苗字を名乗ったわけです。

朝倉貞景の母親である天心清佑は南陽寺を創建しており、後に朝倉氏の子女が入寺とする尼寺となりました。

朝倉貞景の時代に南陽寺に比丘尼なる人物がいた事が分かっていますが、比丘寺は朝倉貞景の妹か娘ではないかとされています。

朝倉氏の第四代当主である朝倉貞景の時代は、分かっている事が少なく不明な点が多いです。

姉小路尹綱討伐

1411年に飛騨の姉小路尹綱が挙兵しました。

この姉小路尹綱の討伐に朝倉貞景も参加した記録が残っています。

姉小路尹綱討伐に朝倉貞景が参戦したのは確実だとされていますが、どの様な功績を挙げたのかは不明です。

実際のところ朝倉貞景の実績で分かっているのは、姉小路尹綱討伐くらいしかないのが実情だと言えるでしょう。

朝倉貞景の最後

朝倉貞景は1436年に亡くなったと記録されています。

ただし、この時の朝倉貞景の年齢は77歳とするものと、41歳とするものがあります。

41歳説を採用した場合は、生年が1396年となってしまい、長男の朝倉教景(第五代)の生年が1380年であり、子の方が親よりも先に生まれた事になってしまうわけです。

それを考慮すれば朝倉貞景は1358年に生まれ77歳で亡くなったとした方が自然だと言えます。

尚、朝倉貞景は実績の大半が不明ですが、30年以上も朝倉氏の当主となっていた事になります。

朝倉貞景の法名は大心宗忠であり、後継者は長男の朝倉教景となりました。

朝倉氏の歴代当主

朝倉広景高景氏景ー貞景ー教景ー家景ー孝景ー氏景(八代)ー貞景(九代)ー孝景(十代)ー義景

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