
| 名前 | 陳の桓公 |
| 姓・諱 | 嬀鮑 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前754年ー紀元前707年 |
| 一族 | 父:文公 弟:陳公他 子:太子免、利公、荘公、宣公 |
| コメント | 死の直前に弟が太子になった。 |
陳の桓公は春秋時代の陳の君主です。
陳の桓公は衛の州吁を誅するなどはしていますが、鄭の荘公の実力を見誤り戦いで敗れました。
鄭の荘公の実力を見誤った事に関しては、春秋左氏伝の君子や周の周任らに非難されています。
陳の桓公には太子免がいましたが、陳の桓公の病が酷くなると、弟の五父(陳公他)が乱を起こし太子免を殺害しました。
五父が陳の桓公の後継者になりますが、陳では納得していない者も多く、混乱に入る事になります。
州吁の乱と陳の桓公
娘が衛に嫁ぐ
衛の荘公は大国斉から公女の荘姜を娶りましたが、子を授かる事はありませんでした。
ここで、衛の荘公は陳の公女である厲媯と戴媯を迎える事になります。
厲媯と戴媯が誰の娘なのかは不明ですが、個人的には陳の桓公の娘だった可能性が高いと感じています。
ここでは、陳の桓公の娘が厲媯と戴媯だったと考え、話を進めていきます。
戴媯が公子完(衛の桓公)を生み、荘姜が育てる事になり、衛の荘公の太子となりました。
陳の桓公にとっても、陳の公女である戴媯が生んだ公子完が、衛の荘公の後継者になる事は喜ばしい事だったのではないでしょうか。
しかし、衛の荘公は愛妾が生んだ州吁を可愛がり、これが後の悲劇を生む事になります。
衛の桓公の死と鄭への出兵
衛の荘公が亡くなると、公子完が即位し衛の桓公が即位しました。
衛の桓公は戴媯の子であり、陳の桓公にとってみれば、願ったり叶ったりの展開だった事でしょう。
陳の桓公の孫が、衛の桓公になったと考えられます。
しかし、衛の桓公が即位すると弟の州吁は不満を持ち出奔し、紀元前719年に衛の桓公を襲撃し討ち取ってしまいました。
この後に、州吁は衛、宋、陳、蔡の兵で鄭を攻撃し、東門の役が発生する事になります。
州吁に陳も協力していますが、普通に考えれば州吁は陳の桓公の孫である衛の桓公を殺害しており、許せる様な相手ではなかったはずです。
何故か、ここでは陳は衛の為に兵を出し、鄭への攻撃に参加しました。
陳の桓公が衛に協力した理由は不明ですが、州吁は乱を起こすと直ぐに鄭を攻撃しており、陳の桓公は衛の桓公が殺害された事を知らなかったのかも知れません。
衛の桓公が州吁に襲撃され亡くなってしまった時に、厲媯や戴媯などの陳に近しい人物も亡くなり、情報が上手く伝わらなかった可能性もあるはずです。
しかし、後の展開を考えると、陳の桓公は何処かのタイミングで、衛の桓公が州吁に殺害された事を知り、憤怒の感情を抱いたのではないでしょうか。
州吁を討ち取る
州吁は鄭との戦いで戦果は挙げましたが、人々の支持を得る事はありませんでした。
腹心の石厚が父親の石碏に相談すると、陳の桓公を通じて、周の桓王に朝見すれば国は治まると助言しました。
州吁と石厚は石碏の言葉に従い陳に向かいますが、ここで石碏は陳の桓公に「不届き者の州吁と石厚を討つ様に」と進言する事になります。
陳の桓公は石碏の言葉を実行し、州吁と石厚を捕らえる事になります。
石碏の言葉を実行する辺りは、陳の桓公は衛の桓公を誅した州吁を恨んでいたとみる事が出来ます。
陳の桓公は右宰の醜を派遣し、濮で州吁を殺害しました。
ただし、陳の桓公は石厚を殺害しておらず、衛に返そうとしたのかも知れません。
しかし、石碏は獳羊肩を派遣し、石厚を陳で殺害させました。
衛では衛の宣公が立つ事になります。
尚、史記の陳杞世家では「陳の桓公の26年に衛の国人が主君の州吁を殺した」とあるだけですが、ここでは春秋左氏伝の記述をベースにして記載しました。
鄭を過小評価
鄭との講和を拒否
鄭の荘公が陳に講和を持ちかけて来た事がありました。
この時に弟の五父は「鄭と講和するべき」と進言しますが、陳の桓公は「宋と衛は面倒な相手だが、鄭などたいした敵ではない」と述べ、鄭の要請を拒絶したわけです。
鄭が陳に講和を持ち掛けた時期は不明ですが、紀元前720年頃に鄭は外交で孤立しており、鄭の荘公が事態を打開する為に、陳と講和を持ち掛けたのではないでしょうか。
紀元前717年に鄭の荘公は陳を攻撃し、大きな戦果を挙げた事が記録されており、陳の桓公は鄭を過小評価していたと言わざるを得ないでしょう。
尚、鄭の荘公は春秋五覇の一人にも数えられており、この時代でも屈指の名君とする評価もあります。
君子と周任の評価
春秋左氏伝の君子は、陳の桓公を次の様に評価しました。
※春秋左氏伝(岩波文庫)より
君子の評。「善は逃がすな。悪は伸ばすな」とは、陳の桓公の事であろうか。
悪を伸びるに任せれば、やがて己に降りかかる。
それからいくら手を尽くしても、所詮、間に合うはずもない。
『商書』にこうある。
悪の伸び易きこと、火の原野に燃え広がるが如く、近づくことすら難しければ、叩き消す事さらに術なし。
春秋左氏伝の君子は東周王朝の卿士となり、天子を奉じる鄭の荘公との講和を許さなかった事を非難したのでしょう。
周の大夫である周任は、次の様に述べました。
※春秋左氏伝(岩波文庫)より
国家を治める者は、悪を目にしたら、農夫が雑草を引き抜くが如く、刈り取って積み上げよ。
その根本から断ち切って、繁殖不可能にしてしまえば、善なる者が伸びるであろう。
周任も相手を過小評価し、講和を断わった陳の桓公を非難したと言えるでしょう。
陳の内乱の予見
紀元前716年に陳と鄭の講和が決まりました。
陳では五父が代表となりますが、態度が不自然であり、鄭の洩駕は異変に気付く事になります。
鄭から良佐が陳に赴いたとあり、陳の桓公と会見を行ったのでしょう。
陳の桓公と良佐の間で盟約が結ばれますが、何処か違和感があった様で、陳に内乱が起きると予見しました。
それでも、同年に陳の桓公の娘が鄭の公子忽(鄭の昭公)に、嫁いでおり、陳と鄭の関係は強化されたと言えそうです。
紀元前710年に宋の華父督が主君の宋の殤公を殺害しましたが、陳は斉、鄭、魯と共に賄賂を受け取っており、華父督の立場を擁護しました。
陳の桓公の最後
紀元前707年に陳の桓公が重い病気となり、明日をも知れぬ命となります。
こうした時期に弟の五父が乱を起こし、陳の桓公の太子免を殺害し、自らが太子となりました。
陳の桓公が亡くなった時の混乱により、二度も訃告があった事が記録されています。
陳の桓公が亡くなると、弟の五父が後継者となり陳公他と呼ばれる事になります。
ただし、陳の桓公の子らは、陳公他の即位に対し納得はしていなかった事でしょう。
尚、この年に周の桓王と鄭の荘公の間で、繻葛の戦いが行われ、陳は東周王朝の軍に入りますが、内乱が影響したのか精彩を欠く動きをしました。
| 先代:文公 | 桓公 | 次代:陳公他 |