鎮西奉行は鎌倉時代の初期に九州に設置された地方機関です。
鎌倉幕府が九州と統治する為に設置されたのが鎮西奉行となります。
鎮西奉行は源頼朝に敵対した源義経を捉えるのが目的とされていますが、幕府が九州の御家人を束ねる組織として設置したとみるべきでしょう。
天野遠景が初代の鎮西奉行となりますが、剛腕を発揮し過ぎた部分も多くあり解任されています。
天野遠景の後任として武藤資頼が鎮西奉行になったとする見解もありますが、多くの異論がある状態です。
こうした事情から、鎮西奉行は天野遠景の一代で終わったとみる事も出来ます。
鎮西奉行と似ている役職で鎮西探題なるものがあります。
鎮西奉行と鎮西探題の違いは何かといえば、鎮西奉行は鎌倉時代の初期に設置され鎌倉幕府の九州支配を担った組織であり、鎮西探題は元寇後に鎮西談義所が設置され、鎮西談議所の後任の組織が鎮西探題となります。
鎮西奉行の始まり
1185年に壇ノ浦の戦いがあり、平家は滅亡に至りました。
平家が滅亡すると源頼朝と弟の源義経が対立する事になります。
政治力が発揮できなかった源義経は朝敵として認定され追われる身となり、源頼朝は天野遠景を鎮西奉行として九州に派遣しました。
頼朝側近である天野遠景が源義経捜索の為に九州に派遣されたのが鎮西奉行の始まりとなります。
天野遠景は鎮西奉行になると御家人の催促を行い義経捜索を始めました。
鎮西奉行の権限
天野遠景は九州に派遣すると大宰府に介入する事になります。
大宰府は律令制における九州の中心地であり、天野遠景は鎌倉幕府による九州支配を目指しました。
天野遠景は鎮西奉行の役職を利用し地頭職の安堵や相論裁許も行っています。
ただし、大宰府は九州の北西部にあり、天野遠景が強力な権限を発揮できたのは、九州の北西部のみだったとも考えられています。
鎮西奉行の終焉
鎮西奉行となった天野遠景は九州で先例を無視した剛腕政治を行った事で朝廷から嫌悪される存在となりました。
こうした事情もあり、1195年まにでは鎮西奉行を解任されています。
天野遠景の後任とみられているのが、大宰少弐となった武藤資頼です。
武藤資頼は大宰府におり自らの守護管国外における訴訟審理権を行使しており、権限において鎮西奉行に就任していたとも考えられています。
ただし、武藤資頼の権限行使は幕府の訴訟準備手続きの要請に応じたものとする見解もあります。
承久の乱の後に京都に六波羅探題が設置されると、九州の訴訟の裁許も行っており、六波羅探題が九州の守護達の上にいる存在になっている事も分かっており、武藤資頼を鎮西奉行とするには無理があるとする説も存在します。
他にも、大友氏と武藤氏を鎮西奉行とする見解もありますが、異論もある状態です。
確実な所では天野遠景が鎮西奉行となり、天野遠景の解任により鎮西奉行の歴史に幕を閉じだという事でしょう。
鎮西奉行の権限は九州各国の守護に分担されて行く事になります。
尚、大宰少弐となった武藤資頼が少弐氏の初代に数えられています。
大宰少弐の役職は少弐氏の世襲となりました。
鎮西東方奉行
元の脅威が日本にも及んだ1271年に幕府は武藤氏と大友氏を九州防衛の責任者としました。
鎌倉幕府は武藤及び大友に守護管国を超えた軍事指揮権と訴訟審理権を与えています。
幕府では武藤氏や大友氏に与えた大国元の脅威に対し、物事を迅速処置させる為の手段でもあったのでしょう。
幕府では元に備える為の一時的な措置でしたが、大友氏では守護管国を超えた権利を許されていた事を理由に「鎮西東方奉行」を名乗りました。
しかし、鎮西東方奉行は大友氏が勝手に称していただけであり、鎌倉幕府が認めた正式な機関ではありません。
尚、鎌倉幕府では鎮西奉行の後任の組織として元寇後に鎮西談議所が設置され、後に鎮西探題が設置されました。