未分類 鎌倉時代

鎮西談義所は短期間で活動が停止された

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宮下悠史

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名前鎮西談義所
読み方ちんぜいだんぎしょ
時代鎌倉時代
活動期間1286年ー1292年
コメント鎮西探題の前身組織

鎮西談義所は1286年に鎌倉幕府が九州の博多に設置した機関となります。

鎌倉時代には文永の役と弘安の役という2度の元寇があり、社会的な不安が増大していました。

鎌倉幕府としても元軍の3度目の侵攻に備える必要があったわけです。

こうした中で鎮西談義所が九州に博多に設置される事になります。

鎮西談義所の頭人(長官)には北部九州の少弐氏、大友氏や薩摩の渋谷氏、九州に下向し日向や肥前での活動が見られる宇都宮氏が選ばれました。

鎮西談義所は合議制だったと考えられていますが、少弐氏と大友氏の権勢が強くなるなどの問題もあり、幕府は1292年に北条兼時や名越時家を異国打手大将軍に任じ、鎮西探題を設置する事で活動は終焉を迎えました。

鎌倉幕府の意向で鎮西探題が設置された事により、鎮西談義所は短期間で活動を終えたと言えるでしょう。

鎮西談義所の設置

鎮西談義所は鎌倉幕府が弘安9年(1286年)に九州の博多に設置した機関となります。

1281年に弘安の役があり、日本軍は元軍を撃退しました。

現代人からみれば2度の元寇があれば「元軍は攻めてこない」と知っていますが、当時の人々としてみれば元が攻めてこない保証は何処にもなく不安が拡がったわけです。

こうした中で鎌倉幕府では1286年に鎮西談義所を設置しており、モンゴル帝国への警戒から幕府が設置した機関なのは明らかでしょう。

鎌倉幕府では源頼朝の時代に鎮西奉行を設置しましたが、比較的短い期間で活動が終わり鎮西奉行の権限は九州の守護達に分担されていました。

幕府の首脳部は九州が一丸となって動ける事が大事だと考えたのか、鎮西談義所を設置し円滑に動ける組織づくりを目指したのでしょう。

鎮西談義所は少弐経資,大友頼泰,宇都宮通房,渋谷重郷の4名が頭人(長官)となり発足し合議制で物事を決める機構となりました。

しかし、後に少弐経資は少弐盛経、大友頼泰は大友親時に鎮西談義所の長官の座を譲っています。

鎮西談義所では九州の軍事指揮権や所務沙汰の裁断権を持ち九州を統括する事になります。

鎮西談義所が所務沙汰、守護が雑務沙汰及び検断沙汰を行う様になっており、これが鎮西探題にも引き継がれました。

ただし、鎮西談義所は極めて短い期間で終わってしまった事が分かっています。

鎮西談義所は4人の長官がいた事になっていますが、少弐氏と大友氏の勢力が極めて強かったと考えられています。

鎮西談義所の廃止

正応5年(1292年)になると元や高麗から信書が届いており、鎌倉幕府では危機感を募らせる事になります。

幕府としては3度目の元寇への備えが必要になり、少弐氏、大友氏、渋谷氏、宇都宮氏が長官となり、物事を決める鎮西談議所では不安を感じたのでしょう。

鎌倉幕府の首脳部では北条兼時や名越時家を「異国打手大将軍」に任じ、九州へ派遣しました。

これが鎮西探題の始まりとなります。

北条兼時や名越時家が鎮西探題に就任してから、鎮西談義所が活動した形跡がなく、廃止になってしまったのでしょう。

鎮西談義所は短期間で活動を終えました。

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