
| 名前 | エジプト古王国時代 |
| 年代 | 紀元前2686年頃 - 紀元前2185年頃 |
| 王朝 | 第三、第四、第五、第六 |
| コメント | 大ピラミッドの時代 |
エジプト古王国時代はエジプト初期王朝時代が終わった事で始まりました。
エジプトで有名な建造物などは、多くがエジプト古王国時代に造られています。
エジプト古王国時代は大ピラミッドの時代であったとも言えるでしょう。
ギザの三大ピラミッドもエジプト古王国時代に建造されました。
また、メソポタミアなどと比べると、エジプトは争いが少なく比較的平和な時代が続いており、大土木工事の時代に突入しています。
過去にはピラミッドは奴隷による強制労働で造られたとされていましたが、近年の研究では、むしろ好待遇だったと考えられています。
日本では古墳時代が古代の大土木工事の時代と言えそうですが、エジプトでは古王国の時代が大土木工事の時代だと言えるでしょう。
尚、エジプト古王国時代は第七王朝や第八王朝も入れる場合があります。
第七王朝と第八王朝は首都が古王国時代と同様にメンフィスだった事から、古王国に入れるわけですが、ここでは混乱の時代である第七王朝や第八王朝は、第一中間期に入れる事にしました。
エジプト第三王朝
カセケムイの死と第三王朝の成立
エジプト第二王朝最後の王・カセケムイが全盛期に亡くなった後に、彼の娘と結婚したのがサナクト王という人物であり、ここからエジプト第三王朝が始まります。
それと同時にエジプト古王国時代が幕を開けました。
エジプト古王国は第三王朝から第六王朝までを指す事が多く、「ピラミッドの時代」とも言われています。
ギザの三大ピラミッドなど代表的なエジプトの建造物が出来たのも、エジプト古王国時代であるとされています。
ジェセル王とピラミッド建設の始まり
ピラミッドが造られ始めたのは、エジプト第三王朝の二代目であるジェセルの時代でした。
ジェセルの時代まではピラミッドがありませんでした。
エジプト初期王朝時代のファラオは、マスタバと呼ばれる長方形のシンプルな陵墓に埋葬されていたと言われています。
一説によると、ジェセル王は宰相であるイムヘテプの進言でピラミッドの建設を決めたと考えられています。
イムヘテプは行政長官、建設者、大神官、彫刻家などの異名を取り、天才と呼ばれた人物です。
ジェセルやイムヘテプにより、エジプト古王国時代の代表的な建築物であるピラミッドが始まったと言えるでしょう。
ジェセルのピラミッド
ジェセル王のために建設されたとされるピラミッドは、現在も「ジェセルのピラミッド」として残っています。
ギザのピラミッドほど洗練された形ではないものの、その構造には独特の力強さが感じられます。
ジェセル王のピラミッドは東西に125メートル、南北に109メートルの大きさがあると言われています。
ただし、ジェセル王の19年間の治世中には、ピラミッドが完成しなかった可能性も指摘されています。
これは、ピラミッド建設に膨大な労力と資源が必要であったうえ、当時としては初めての試みであったことが理由と考えられます。
ジェセル王は紀元前2649年に亡くなったとされていますが、ジェセル王のピラミッドがいつ完成したのかは不明です。
結局最後まで完成せずに、建設が中止されたという説もあります。
ナイル氾濫と公共事業としてのピラミッド
ジェセル王の時代にエジプトは版図を拡げ、南はアスワンの辺りまで支配地域にしました。
アスワンがエジプトの南の境界線になったとも言われています。
こうしてみると、ジェセル王の時代にはエジプトは順調に繁栄していた様に思えますが、7年間もナイル川が氾濫を起こさない時期がありました。
ナイル川は豊かな土壌をもたらしてくれるため、氾濫しなければ、エジプトは食糧危機に陥ってしまいます。
そこでジュセル王は、ナイル川の水源の主であるクヌアの神殿に土地を寄進します。
すると、ナイル川で氾濫が起こりました。
ピラミッドは公共事業であったという説があります。
ジェセル王の時代に雨が降らなかった事で、ジェセル王とイムヘテプが民を食べさせるために行ったことが、ピラミッドの始まりだったのかもしれません。
セケムケト王と未完ピラミッド
ジェセル王が亡くなると、セケムケトがエジプトのファラオに即位する事になります。
紀元前300年頃に書かれたとされるマネトの「エジプト史」によると、エジプト第三王朝はジェセルの死後に六人の王が即位し、157年間統治した事になっています。
しかし、最近の研究により、彼の死後にはエジプト第三王朝のファラオは三人しかおらず、36年間の治世で終わったという説が有力視されています。
ジェセル王の後継者となったセケムケトは僅か6年の治世で終わり、ピラミッドも建設途中で放棄されたと言われています。
これはセケムケト王の未完のピラミッドとして、現在も残っています。
セケムケト王のピラミッドがもし完成していれば、7層70メートルに達する規模であり、ジェセル王のピラミッドを上回っていたと考えられています。
セケムケトの治世がもう少し長ければ、完成したピラミッドを見られたかもしれません。
カーバー・フニ・スネフェルへ:建設地の移動と技術の発展
ジェセルとセケムケトはサッカラという地にピラミッドを建造し、セケムケトの後継者であるカーバーはギザの南にピラミッドを造りました。
カーバーの後継者となるフニはファイユーム地方の外れで、カイロの南にあるメイドゥームにピラミッドを建設しています。
ピラミッドの場所をサッカラから変更した背景には、この場所に建設する上での問題があったことが考えられます。
メイドゥームのピラミッドは、崩れピラミッドとも言われており、かなり形が特殊です。
メイドゥームのピラミッドはフニ王の代では完成せず、義理の息子で後継者であるスネフェルの代に完成したと言われています。
フニはエジプト第三王朝最後のファラオとされていますが、スネフェルが彼の後継者となり、エジプト第四王朝が始まる事になります。
スネフェルによりエジプト古王国の、最初の王朝であるエジプト第三王朝は終焉しました。
エジプト第四王朝
エジプト第四王朝の始まり
エジプト古王国の中でも2番目の王朝がエジプト第四王朝です。
エジプト第四王朝のスネフェルはフニ王の義理の息子であると言われているのですが、スネフェルの母親がフニの下位の王妃だったとする説も存在します。
第四王朝はギザの三大ピラミッドやスフィンクスの時代ということもあり、考古資料や文献が一気に増え、歴史の実態がより明確にたどれるようになっていきます。
スネフェルは前王フニの娘である、ヘテプレヘストと結婚しました。
ヘテプレヘストはフニ王の上位の妃の娘だったとされています。
これは近親婚にあたりますが、古代エジプトでは決して珍しいことではありませんでした。
スネフェル王の遠征と巨大建築ラッシュ
パレルモ石によれば、スネフェルは即位すると国境を越えて、スネフェルがレバノン及びシナイ半島に遠征し
レバノン杉、トルコ石を得たとされています。
また、彼はシナイ半島と縁が深く、そこでは神として崇められていたそうです。
スネフィルの時代にはメソポタミアには統一王朝は存在していませんでした。
スネフィル王は紀元前2600年頃の王とされていますが、メソポタミアの統一王朝であるアッカド帝国の出現には、300年ほど待つ必要があります。
そのため、当時のエジプトは世界最強の勢力であったと言えるでしょう。
スネフィルは屈折ピラミッドと赤ピラミッドを建設しました。
屈折ピラミッドは、その名のとおり途中で傾斜角度が変化している点が大きな特徴です。
完成度という点では後のピラミッドに及ばないものの、独特の造形にはどこか味わいがあり、粗削りながらも独自の美しさや芸術性が感じられます。
また、スネフェルの赤ピラミッドは、高さで言えば、全てのピラミッドの中で三番目に高いとされています。
赤ピラミッドが赤く見えるのは、花崗岩を使っているためとされています。
また、赤ピラミッドが初の直線を可能にしたピラミッドだとされています。
屈折ピラミッドやジェセル王のピラミッドが多少歪んでいるのに対し、赤ピラミッドは綺麗な三角形をしています。
ちなみに、スネフィルは崩れピラミッドなどを含めると、生涯で5つものピラミッドを建造したと言われています。
この時代のエジプトには圧倒的な財力があったということが分かります。
この辺りもエジプト古王国時代の豊かさを見て取る事が出来るはずです。
彼が多くのピラミッドを建てた事で、後のピラミッドを建造する技術が格段に上がっていきました。
クフ王と大ピラミッドの建設
スネフィルが紀元前2589年に亡くなると、子のクフが即位する事になります。
彼は、最大のピラミッドを建造した人物です。
クフ王は「ギザに誰も作った事がないような大ピラミッドを建造する」と決意します。
クフ王の大ピラミッド建設にあたっては、内部構造の設計が何度も変更された形跡があり、当時の建築家たちが相当な試行錯誤を重ねていたのではないかと考えられています。
建造方法に関しても諸説あるものの、未だに謎のままとなっています。
また、大ピラミッドはクフ王の存命中に完成しなかったと言われています。
完成したのは、クフ王の息子であるジェドエフラーの時代でした。
ピラミッドに関しては、使われなくなった建築方法はすぐに廃れてしまい忘れ去られることがよくあったようです。
クフ王はピラミッドを造るだけでなく、スネフィルと同じようにシナイ半島に遠征したと言われています。
ただし、後代の年代記によると、彼はすこぶる評判が悪かったそうです。
民に対して過酷な政治を行っていた可能性が指摘されています。
遠征を行ったり巨大ピラミッドを造ったりと英雄的な君主であった一方で、民の事はほとんど顧みていなかったのかもしれません。
クフ王は紀元前2566年に亡くなったとする説が最も有力です。
そして、息子のジェドエフラーがファラオになりました。
ジェドエフラー王と太陽神信仰の始まり
ジェドエフラーは在位期間が短く、分かっている事もほとんどありません。
特筆すべき点としては、「サ・ラー」を名乗っていた事が挙げられます。
ジェドエフラーはエジプトのファラオで初めて、太陽神であるラーと自身を関連付けたとされています。
ジェドエフラーは父親であるクフ王のピラミッドを見下ろせる場所に自分のピラミッドを建設しました。
また、ピラミッドの形もクフ王のものを継承せずに、昔の形に戻したとされています。
ジェドエフラーは何らかの原因で、父親に対する反抗心があったのかもしれません。
それでも、ここでエジプト古王国時代の2番目の王朝であるエジプト第四王朝は終焉しました。
カフラー王とスフィンクスの建造
ジェドエフラーの孫はエジプト第五王朝を開く事になります。
ジェドエフラーは紀元前2558年頃に若くして亡くなったとされており、その後、クフ王のもう一人の息子であるカフラーがファラオに即位します。
カフラー王はピラミッドだけでなく、スフィンクスも建造した事で有名です。
ピラミッドの規模こそ父クフ王のものより小さいものの、スフィンクスを築いたという点で、彼は特筆すべき偉業を残したと言えるでしょう。
カフラー王の時代においてもエジプトは強国であり、カフラー王はピラミッドやスフィンクスだけではなく、河岸神殿、葬祭殿などの建造も行ったとされています。
ピラミッドが公共事業であったという説が事実かどうかは定かではありませんが、石を削ったり埃が舞ったりする中での作業もあったため、大変な仕事であった事は間違いないと思われます。
しかし、ピラミッドを造っていた労働者にはビールが支給されていたなど、好待遇であったとする説もあるようです。
カフラー王のピラミッド
エジプト古王国時代の代表ともされるギザの三大ピラミッドの真中に建設されたものが、カフラー王のピラミッドです。
実際にはカフラー王のピラミッドはクフ王のピラミッドよりも小さいのですが、高い場所に造られたことが関係して、大きく見えています。
上空から見ると、クフ王のピラミッドが一番大きいことがはっきりと分かります。
先ほども述べたように、カフラー王はスフィンクスも建設しました。
スフィンクスの顔はカフラー王をモデルにしていると言われています。
さらに、スフィンクスが建設されたのは1万年前だとする説もあります。
これは、スフィンクスには雨で侵食された跡があり、エジプトで雨が降ったのは紀元前5000年よりも前であるためですが、専門家の間では、信憑性が低いと指摘されています。
メンカウラー王の善政と小規模ピラミッド
カフラー王が無くなると、メンカウラー王が即位する事になります。
彼は紀元前2532年頃に即位したという説が最も有力です。
歴史の父と呼ばれたヘロドトスによると、メンカウラー祖父であるクフ王とカフラー王の時代に入る前に、
「エジプトの民は150年の艱難にあう事であろう」という予言が神々によってなされたそうです。
これは、クフ王やカフラー王が行ったピラミッド建設などで、民が苦しむ事を予言していたと考えられます。
現在ではピラミッドは公共事業であり、民は優遇されていたという話が存在しますが、過去にはクフ王やカフラー王が過酷な政治を行っていたという説が主流になっていた時代がありました。
予言に反してメンカウラー王は、民を憐れみ善政を敷く事になったとされています。
メンカウラー王が善政を行ったために予言が外れ、神々の面目を傷つけたという記録もあるようです。
メンカウラー王が善政を敷くと、神官たちは「メンカウラーは6年だけの善政であり、6年が過ぎれば、元の過酷な政治に戻るであろう」という予言を出します。
彼はその神託に打ち勝とうとして政務に励みますが、予言通り6年後に死亡してしまいました。
ギザの三大ピラミッドの中で、メンカウラー王のピラミッドだけは極端に小さく、クフ王のピラミッドの半分以下となっています。
メンカウラー王のピラミッドが極端に小さいのは、祖父クフ王と父カフラー王の時代に巨大建造物へ莫大な財力が投じられた結果、メンカウラー王の治世には財政がひっ迫していたためだとする説があります。
一方で、単に彼の治世が短かったためだという説もあるようです。
ちなみに、マネトはメンカウラー王の治世を63年としており、また最近では28年の治世であるという説も有力だとされています。
メンカウラー王はクフ王やカフラー王と比べて肖像画が多く残されていますが、彫刻は未完成の物が多いと言われています。
彫刻が完成していない事から、彼は急死したのではないかと考えられています。
メンカウラー王が亡くなると、異母弟であるシェプセスカフ王が即位する事になります。
メンカウラーの息子がメンカウラーよりも先に亡くなったためです。
シェプセスカフ王の治世はわずか4年だったと言われています。
また、彼の時代には財源が枯渇していたと言われており、ピラミッドではなく長方形のマスタバが作られていました。
こうした事情からエジプト古王国時代も最良の時代は過ぎ去っており、困難な時代に突入したとする見解もあります。
エジプト第五王朝
第五王朝の太陽信仰と質素化するピラミッド
シェプセスカフには息子がおらず、娘がウセルカフという人物と結婚しました。
ウセルカフはエジプト第五王朝の始祖と考えられています。
エジプト古王国時代も終盤に突入する事になりました。
エジプト第五王朝は紀元前2498年に始まったとされています。
ウセルカフはカフラー王の子であるジェドエフラー王(「サ・ラー」をエジプトで初めて名乗ったファラオ)の孫にあたる人物であるとされています。
ジェドエフラーの影響があったためか、エジプト第五王朝では太陽信仰が活発になったと言われています。
エジプト第五王朝のファラオは、太陽神殿を建造したなどの実績から太陽王とも呼ばれています。
ウセルカフの時代もピラミッドは作られましたが、その芸術性はかなり失われてしまっていました。
ギザの三大ピラミッドと比べると規模も外観も質素で、彼のピラミッドは、まるで土を盛り上げただけのようにも見えます。
ウセルカフ王が亡くなるとサフラー王が後継者となります。
彼の時代がエジプト第五王朝の全盛期だったと考えられています。
しかし、残念ながらピラミッドは質素なままでした。
エジプト古王国時代の全盛期のピラミッドとは、比べ物にならない様なものになったと言えるでしょう。
第五王朝の終焉
サフラー王以後は、ネフェルイルカラー、シェプセスカラー、ネフェルエフラー、ニウセウラー、メンカウホル、シェドカラーとエジプト第五王朝が続く事になります。
エジプト第五王朝ではオベリスクが多く作られました。
ちなみに、エジプトがローマに征服されると、多くのオベリスクがローマに持ち去られてしまったそうです。
その後、エジプト第五王朝は最後の王であるウナス王の時代になります。
しかしながら彼には息子がおらず、エジプト第五王朝は断絶してしまいました。
ウナス王が亡くなった際、政情が不安定になったことが影響していると言われています。
マネトによると、メンフィス出身のテティが即位すると、政治が安定したそうです。
エジプト第六王朝
第六王朝の成立
エジプト第六王朝が古王国時代の最後の王朝でもあります。
この時代になるとエジプト古王国の王朝も弱体化が顕著になっています。
テティはエジプト第六王朝の始祖となりました。
テティはウナス王の娘と結婚する事で、エジプト第六王朝を開いたとされています。
記録によれば、最終的に彼は警護している者に殺害されたそうです。
テティは何かしらの恨みを買っていたのか、政治事情などが関係しているのかもしれません。
また、殺害を計画し実行したのは息子のウセルカラーだったのではないかとも言われています。
ペピ1世の治世
ウセルカラーがファラオになったとする説もありますが、ウセルカラーの王位は短期間であり、次いでペピ1世がファラオに即位しました。
ペピ1世は王妃に謀反を起こされるなどした一方で、土木事業の材料の確保のためレバノンに遠征するなど、精力的に活動したという記録も存在します。
他にも、ペピ1世の代では国内の把握のため、2年に1回家畜の調査を行ったと言われています。
彼の治世は50年にも及び、名君と呼ばれる事がありますが、碑文によれば宮廷外で貴族の富と権力が増したという事実もあったそうです。
富を得た貴族たちは上エジプトに豪勢な陵墓を築く事になったと言われています。
ペピ1世はアビドス地方の豪族の娘二人と結婚しました。
結婚した女性は、二人とも「アンクネスメリラー」という名前だったそうです。
二人のアンクネスメリラーは、それぞれメルエンラーとペピ2世を生む事になります。
ペピ2世の長期政権と腐敗の進行
ペピ1世の死後、メルエンラーという人物が即位するものの、わずか5年ほどで亡くなったとされています。
メルエンラーが亡くなると、ペピ2世がわずか6歳でファラオに即位する事になります。
彼は100歳まで生き、ファラオとして94年間も在位していたとされています。
ただし、ペピ2世の在位に関しては、64年を間違えて94年と記録してしまったという説もあります。
彼はエジプトの歴代ファラオの中で、トップの在位年数であったと考えられていますが、この時代にエジプト第六王朝の権力が、メンフィスから失われたとも言われています。
若くして即位すると、側近や大臣が政治の主導権を握りやすく、君主自身は主体性を発揮しにくくなるとされます。
その結果、王は他者の意見に左右されやすい存在になってしまうことがあるようです。
この時代に、エジプトは政治腐敗を加速させたと言われています。
ペピ2世の代で王朝の富の多くが地方の行政官や貴族に移ったとされています。
第六王朝の終焉と第一中間期の到来
ペピ2世が亡くなると息子のメルエンラー二世がファラオとして即位しました。
しかし、彼はわずか1年で亡くなってしまったとされています。
次いでネチェルカラーが即位する事になります。
ネチェルカラーは、ヘロドトスやマネトがいうニトクリス女王と同一人物説であるとする説が存在します。
ニトクリス女王は兄を殺した犯人を計略で溺死させ、復讐を果たしたものの、自害してしまった人物であると言われています。
しかしながら、ネチェルカラーとニトクリス女王を同一人物とする資料は無いという指摘も存在します。
ネチェルカラーの在位も三年ほどしかなく、エジプト第六王朝は終焉に向かいます。
エジプト第六王朝の終焉により、エジプト古王国時代は終わりを告げる事になりました。
そして、エジプトは第一中間期とされる混乱の時代に突入することになります。
エジプト第六王朝はペピ2世の死で終焉を迎えたと言われています。
これにより、エジプト古王国時代は終わりました。
エジプト第七王朝に関しては、分かっている事はかなり少ないとされています。
エジプト第七王朝はマネトの記録には「70日間王位に就いた70人の王からなる」とあり、非常に入れ替わりが激しかったことがわかります。
また、第一中間期に関しても分かっている情報はかなり限られています。