西周

栄の夷公は周王に匹敵する実力を持っていたのか

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宮下悠史

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名前栄の夷公
本名「落」が名前とも考えられている
生没年不明
時代西周王朝
主君周の厲王
コメント史記では佞臣だが、実際には周王に匹敵する権力を持ったともされている。

栄の夷公は西周王朝時代の人物であり、史記では周の厲王の側近になった様な事が記録されています。

竹書紀年には「栄夷公落」の文字があり、栄の夷公の名は「落」だとも考えられている状態です。

周の厲王の時代の金文で栄伯らしき儀礼のものがあり、栄の夷公は実在したのではないかとも考えられています。

金文の記述から推測すれば、栄の夷公は大貴族であり、かなりの権力者だったとも考えられるわけです。

それでも、史実の栄の夷公を考えれば西周王朝後期の権臣だった事は間違いないでしょう。

史記における栄の夷公

栄の夷公の名は史記の周本紀にあり、周の厲王の30年に側近として迎えられた事が記録されています。

史記には「周の厲王は利を好んで栄の夷公を近づけた」とあります。

周の厲王が栄の夷公を側近として重用しようとしたのに反対したのが、芮良夫であり栄の夷公を問題視しました。

芮良夫は「栄公は利益を独り占めする」とも述べており、王室が卑しくなると主張したわけです。

芮良夫は栄の夷公を登用すれば周が滅びるとまで述べていますが、周の厲王は栄の夷公を卿として政治に関わらせました。

栄の夷公は利益を独り占めすると言いましたが、周の厲王の時代には既に西周王朝の本家は行き詰まっており、苦しい様な状態だったわけです。

厲王の方では周王の力を昔の様に取り戻したいと考えていました。

周の厲王は自ら将となり遠征も行っており、非常に精力的な君主だった事が分かっています。

栄の夷公は周の厲王の考えをよく理解しており、周王に利益が集まるべきだと考え、邦君と呼ばれる内諸侯や外諸侯の力を削ごうとしたともされているわけです。

ただし、周の厲王の改革は失敗に終わり、厲王自身も彘に出奔する事になりました。

史記を見る限りでは厲王と栄の夷公の改革は頓挫し、周は共和の時代の突入する事になります。

栄の夷公は厲王と権力闘争を繰り広げた!?

落合淳思氏は『古代中国 説話と真相』の著作の中で厲王時代の金文で、栄の夷公のモデルになった人物がいると指摘しています。

この人物と栄の夷公を同一人物で考えると、栄の夷公の正体は大貴族という事になります。

金文では栄の夷公が親族を介して「卯」なる人物に家の財産を治めさせた内容となっており、落合氏はこの行為が問題だと指摘しています。

栄の夷公は周王が行う冊命儀礼を僭称した行為であり、金文だと卯は栄の夷公に感謝の言葉を述べた事になっています。

本来であれば周王が官爵を任命し、中小貴族などは周王に感謝しますが、この文言がと金文の内容が全く同じだと落合氏は指摘しました。

金文の作成者が栄の夷公の部下である「卯」である事から、周の厲王の時代の大貴族の家臣は「中小貴族」と同等の権力があったとも考えられています。

こうした事情から栄の夷公は佞臣ではなく、周の厲王に匹敵する程の経済力を有し、権力闘争の相手だったともされているわけです。

周の厲王は大貴族の力を抑え込み周王の権力を高めようとしましたが、大貴族の反撃により亡命を余儀なくされたとも考える事が出来ます。

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