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| 名前 | 衛の荘公(先代) |
| 姓・諱 | 姫揚 |
| 生年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前757年ー紀元前735年 |
| 時代 | 春秋時代 |
| 一族 | 父:武公 正室:荘姜 側室:厲媯、戴媯 子:桓公、州吁 |
| コメント | 州吁への寵愛が衛の混乱の原因となった。 |
衛の荘公(姫揚)は春秋時代の衛の君主です。
子孫の蒯聵も荘公と呼ばれていますが、ここで紹介するのは春秋時代の初期の君主である姫揚の方です。
戴媯が生んだ姫完(衛の桓公)を太子としますが、妾が生んだ州吁を寵愛しました。
衛の荘公の時代には問題は表面に出ませんでしたが、死後に衛の桓公を州吁が殺害してしまっており、混乱の一因を作っています。
父親の衛の武公は名君と呼ばれた人物ではありましたが、衛の荘公は内乱の原因も作っており、父に劣るとする評価もされている状態です。
衛の荘公は周の東遷の時代を生き抜いた君主ではありますが、具体的な実績が不明であり、分からない事が多いと言えます。
周の平王を何処まで支持したのかも分からない状態です。
衛の荘公と太子完
史記の衛康叔世家によると、衛の荘公の5年に斉の公女を娶って夫人にしたとあります。
斉から嫁いできた女性が、荘姜です。
衛の荘公と荘姜の間には子が誕生せず、陳から来た公女の厲媯は孝伯を生みましたが夭折し、一緒に来た妹の戴媯が公子完(衛の桓公)を生みました。
衛の荘公は戴媯も寵愛したとあります。
公子完は荘姜により育てられる事になります。
衛の荘公が公子州吁を寵愛
衛の荘公には寵愛する妾がおり、州吁を生みました。
州吁は兵戦を好んだ事で、衛の荘公は、その18年(紀元前740年)に将軍に任命する事になります。
こうした状況を危ぶんだのが大夫の石碏であり、衛の荘公が州吁を寵愛し過ぎており、ここから乱が起こると諫言しました。
しかし、衛の荘公は石碏の言葉を聞けず、州吁には今までと同じ態度で接する事になります。
衛の荘公は州吁を庶子でありながら、太子並みの待遇を与えてしまったのでしょう。
衛の荘公の行動が州吁を増長させたとも言えます。
衛の荘公の最後
史記に衛康叔世家によると、衛の荘公はその23年に亡くなったとあります。
紀元前735年に衛の荘公は亡くなった事になります。
後継者は太子完となり、これが衛の桓公です。
衛の桓公は衛の荘公ほど弟を重用せず、最終的に州吁は不満が募り出奔し、衛の桓公を殺害するに至りました。
州吁の乱は衛の荘公が寵愛し過ぎた部分が大きかったのでしょう。
衛の荘公を見ていると太子と庶子の区別は、ちゃんと行わないと本人の為にもならないという事が分かるはずです。
| 先代:武公 | 荘公(姫揚) | 次代:桓公 |