
エジプト初期王朝時代とは、エジプト第一王朝と第二王朝の事を指します。
エジプトでは、メソポタミア文明に影響されながらも独自の文化が作られて行き、ノモスと呼ばれる集団(都市)がナイル川周辺に形成されていきます。
ナイルデルタには下エジプトと呼ばれ20のノモスができ、ナイル渓谷の上エジプトには22のノモスが出来ました。
ナルメルが上エジプトと下エジプトの両方を支配下におさめ、エジプト第一王朝が勃興し、エジプト第二王朝に続いてく事になります。
エジプト初期王朝の時代はエジプトを代表する建築物であるピラミッドやスフィンクスもなく、エジプトらしくないエジプト文明の時代と言われる場合もあります。
エジプト第一王朝
ナルメル王の登場と統一の背景
上エジプトのティスにいたとされるナルメル王が全てのノモスを統一し、エジプト第一王朝が建国される事になります。
ナルメル王はエジプト初期王朝時代のファラオの中で、最も有名なファラオではないでしょうか。
ナルメルはネメスやミンなど同一人物だとされているなど、謎の多い人物とされています。
日本で言えば、神武天皇の様な人物として、ナルメルは評価される場合もあります。
古代では始祖は伝説的な人物であり、分からない事も多いのが普通です。
ナルメルがどの様にして、エジプトに初の統一王朝を建国したのかは不明であり、平和裏に統一したとも、逆に武力で統一したとも言われています。
また、ナルメル王は名門ナガダの古い王家の子孫ネイトホテプを妻にした事で、ナガダの協力を得る事に成功し、エジプトを統一したとされています。
一説によると、ナルメル王はナガダを既に破って属国としていたため、反乱分子を抑える為にネイトホテプを妻に迎えたとされているようです。
このあたりの出来事については、史料が極めて乏しいため、実際のところ何が真実であったのかは明確ではありません。
アハ王とメンフィス建設
ナルメル王が亡くなると、アハが後継者としてエジプト王になりました。
アハにはネメスと同一人物であるとする説があるだけではなく、ナルメル王と同一人物であるとする説があります。
また、ナルメル王とネイトホテプの子だったのではないかとも考えられています。
アハ王の最大の業績としては、エジプト第一王朝の首都となるメンフィスを建設した事でしょう。
歴史の父と呼ばれたヘロドトスの記録によれば、メネス王(アハ王?)は、予定地の真南にダムを建設し、ナイル川を迂回させて、干拓地に首都を築いたとあります。
ヘロドトスは、ダムが決壊するとメンフィスが冠水してしまうため、ダムは年々強化されていったと記しています。
しかしながら、古代のダムがどの程度の規模のものだったのかは、分かっていません。
メンフィスが建設されると、エジプト王や貴族たちはサッカラ丘陵に自分たちの墓を築いたとされています。
サッカラ丘陵からは、メンフィスがよく見えたそうです。
メルネイトが摂政となる
アハ王が亡くなると、エジプト第一王朝では、ジェル王、ジェト王、デン王と王位が継承される事になります。
ジェル王やジェト王の事はよく分かっていないのですが、デン王は即位した時にはまだ幼かったため、母親であるメルネイトという女性が摂政を行ったという話があります。
メルネイトはジェル王の娘だったとも、ジェト王の妃だったとも考えられています。
王族や大臣が権力を持つとデンからエジプト王を簒奪される可能性がありました。
彼女が摂政となったことには、こういったことが関係しています。
ただし、メルネイトはあくまでもデンの摂政であり、王として記録されていたわけではありません。
メルネイトと息子のデンは、強固な信頼関係があった様で、メルネイトが亡くなると、デンは壮大な陵墓を造ったと言われています。
デン王の改革
デンは帝王学などをメルネイトから学んだ可能性があり、王朝の改革者と呼ばれています。
エジプト第一王朝でデン王が実権を握ると、彼は「二重の王」を名乗りました。
二重の王という言葉には、神と人間、聖と俗、ナイル渓谷とデルタなどの対立する二つの言葉を制する意味があったとされています。
そして、デン王は国内改革にも着手する事になります。
エジプト初期王朝の中でも、デン王は改革者として名が通っています。
パレルモ石によれば、デン王はメンフィスにおいて国内の北部、西部、東部の全ての人々を調査したそうです。
それに伴い高級官僚が増えたと言われています。
デン王は非常に熱心な王であり、異国との交易を拡大し、行政の合理化、経済の拡大なども行い王権を強化していきました。
他にも、神々の玉座と呼ばれる神殿を建設するなど、宗教儀式にも熱心だったとされています。
エジプト第一王朝は、デン王の頃が全盛期だったと言えます。
エジプト第一王朝の滅亡
エジプト第一王朝ですが、デン王が亡くなると衰退に向かう事になります。
全盛期が過ぎれば、衰退に向かうのは世の常なのでしょう。
アネジブ王の時代は纏まりに欠け、南北で争いが起きたと伝わっています。
セメルケト王が即位すると、自然災害が多く発生した話があり、古代であれば「王の政治が悪いからだ」と結論付けられてもおかしくはないでしょう。
エジプト第一王朝は、その後にカア王が即位した様ではありますが、業績はよく分からず、カア王の時代にエジプト第一王朝は滅亡しました。
これでエジプト初期王朝の時代の半分が終わってしまったわけですが、エジプト第一王朝がどの様にして滅んでしまったのかは不明です。
エジプト第二王朝のボエトスもしくは、ヘテプセケムイに禅譲したのか、処刑されてしまったのかよく分かっていません。
エジプト第二王朝
セムケイブ時代の宗教対立と混乱
エジプト初期王朝時代の後半であるエジプト第二王朝についてですが、黎明期については分かっている事が殆どありません。
そして、エジプト第二王朝はセムケイブの時代に、エジプトは再び混乱の時代に突入する事になります。
上エジプトと下エジプトの対立が起きたと言われています。
この頃エジプトでは政治だけに留まらず、宗教的な対立も起きるようになっていました。
宗教対立が、ホルス神とセト神の神話の名を借りた宗教戦争に発展していきました。
こうした状況下で、エジプト王であるセムケイブは、板挟みになっていたとされています。
エジプト王家は代々ホルスの化身という事になっていました。
しかし、戦争ではセト神を崇拝する派閥が優勢となっていたため、
セムケイブは自分がセト派に味方し、セト・ペルイブセンを名乗れば国内の荒廃も治まるのではないかと考えます。
しかし、セムケイブがセト派に鞍替えした後も、国内の宗教対立は治まらなかったと考えられています。
この頃のエジプトは大きな混乱に陥っていました。
カセケムイの宗教改革と再統一
こうした中で、エジプト第二王朝では、カセケムイという王が即位する事になります。
カムセケイはカムケイと同一人物であるという説があり、ここでは、同一人物として話を進めていきます。
なお、カセケムイはエジプト第二王朝の最後の王とされています。
カセムケイはセト派とホルス派の宗教対立に終止符を打とうと考えていました。
彼は「ホルス神とセト神を合体させ、融合を図る」という宗教改革を行い、国内を整備します。
この融和政策は効果があったようで、カセケムイの外交センスを評価する声もあります。
カセムケイは宗教改革を行うと、今度はエジプトを再び統一しようと考えます。
下エジプトの人々が命令に従わなかったため、47029人を反逆者とみなし討伐したとされています。
交易の拡大と第二王朝の終焉
カセケムイの活躍でエジプトは再び強大になっていきました。
さらに彼の進撃は続き、異国を屈服させたという記述も存在します。
エジプトは国境の遥か遠くまで遠征し、影響力を大いに高めていくことになりました。
カセケムイは軍資金を作るにあたって、レバノン沿岸地域のビュブロスや地中海の地域と積極的に交流を行い、造船の為の資材などを積極的に得ることにします。
その結果、交易により莫大な富を得ることに成功しエジプトは大いに潤ったとされています。
交易によってもたらされた豊富な富が、ピラミッド建設を支える原動力になったとも考えられています。
第三王朝の成立と古王国時代の幕開け
こうして、エジプト第二王朝の終焉を迎えエジプト第三王朝が始まりました。
エジプト第三王朝の始祖であるサナクト王は、実績としてはほとんど何も残っていないとされています。
ただし、先にも述べたようにエジプトは莫大な富を得た状態で古王国時代、ピラミッドの時代に突入する事になります。
サナクト王の後継者であるジェセル王の時代に、階段ピラミッドが造られる事になります。
「エジプト」と言うと多くの人がイメージするスフィンクスやピラミッドなどは、古王国時代に多くが完成したとされています。
ただし、スフィンクスに関しては一万二千年前からあった可能性が指摘されています。
エジプトは交易の富の他にも、黄金、ナイル川による豊富な食料など、オリエントでも最も発達した地域になりました。
メソポタミアの地方で戦乱が続いた一方で、エジプトでは内乱は起きても、他国から攻められる事はほとんどありませんでした。こうして、古代オリエント第一の強国であるエジプトが作られて行くことになります。