潘濬亡き後に潘氏の後継者となりました。
潘濬が存命中には、騎都尉の位を授かっています。
魏から呉に隠蕃が投降すると、潘翥は朱拠、全琮、郝普らと共に誼を結びました。
しかし、潘翥の父親の潘濬は隠蕃の事で多いに腹を立て、潘翥を責める手紙を送っています。
今回は潘濬の子である潘翥を紹介します。
尚、潘翥は若くして亡くなった話もあり、活躍した時期は短いと言えるでしょう。
因みに、潘翥の弟である潘秘は孫権の姉・陳氏の娘を妻にした話があり、孫権が潘氏と誼を結びたかった様子が見て取れます。
孫権は潘濬の能力の高さを評価するだけでなく、荊州名士である潘氏と関係を深めたかったのでしょう。
隠蕃と誼を結ぶ
隠蕃は魏からの投降者であり、孫権や胡綜の前で弁舌を振るい廷尉の郝普の下に配属されました。
隠蕃は郝普に多いに気に入られ、呉の様々な人々と誼を結ぶ事になります。
潘翥、朱拠、全琮、郝普らは高く、隠蕃を評価しました。
潘翥は隠蕃の弁舌が巧みだった事から、食料を援助したりしていたわけです。
この時に、呉の群臣の中で、隠蕃と誼を結ばなかったのは羊衜と楊迪だけだったとする話もあります。
呉では隠蕃フィーバーが訪れていたのでしょう。
潘濬が激怒
潘翥の父親の潘濬の耳に「潘翥と隠蕃が親しくしている」とする情報が入ってきます。
潘濬はこの時に荊州にいたと思われますが、潘翥と隠蕃の話を聞くと、腹を立てて次の様な手紙を送っています。
「私は国家に多大なるご恩があり、命を捧げて御恩に報いようと思っている。
お前たち(潘翥)も都において、慎重に身を処して欲しいと願っておる。
私はお前たちが賢者と交わり、立派な人物に心を寄せるべきなのに、投降者などと交わり、食料の援助をするとは何事だ。
私は遠方でこの話を聞いた時は、心はおののき何日も憂いが解けぬ程である。
お前たちは速やかに、こちらから遣わした使者の元に出向き、杖叩き百の罰を受けよ。
また急いで、隠蕃に贈った食料の返還を求める様にせよ」
父親の潘濬は子の潘翥に、隠蕃との交わりを断つ様に命じたわけです。
潘濬の手紙で「お前たち」となっているのは、潘濬のもう一人の子である潘秘も含まれるのかも知れません。
さらに、息子の潘翥に百叩きを受ける様に言っているのは、潘濬らしいとは感じました。
結果を見ると潘濬の判断は正しく、隠蕃は後に魏のスパイだという事が発覚し処刑されています。
隠蕃を称賛していた郝普は処刑されている事から、潘翥は父親のお陰で命が助かった可能性も十分にあります。
潘翥の最後
潘濬伝によると、西暦239年に潘濬が死去すると、息子である潘翥が爵位を継いだとあります。
さらに、潘翥の姉なのか妹なのかは不明ですが、潘濬の娘が建昌侯孫慮に仕えています。
孫慮は皇族であり、潘翥の一族は栄えたと思うかも知れませんが、孫慮は20歳の若さで亡くなりました。
正史三国志の注釈・呉書によれば、潘翥は父親の潘濬の兵を引き継いだが若くして亡くなったとあります。
潘翥もまた短命だったのでしょう。
潘翥が亡くなると弟の潘秘が潘家を継いだ様に思います。
潘秘は公平となり郷里で評価が高かった話があります。