名前 | 羽白熊鷲 |
読み方 | はしろくまわし |
登場 | 日本書紀 |
コメント | 神功皇后に討伐される |
羽白熊鷲は日本書紀の神功皇后を主人公とした第九巻に登場する人物です。
日本書紀によれば羽白熊鷲は、荷持田村を本拠地とした記述があります。
日本書紀の記述だと羽白熊鷲は翼があり、高く飛ぶ事が出来たと書かれていますが、これは現実的とは言えないでしょう。
翼が生えている人が現れる辺りは、日本書紀の神功皇后の時代が神話から抜け出していない様にも感じました。
羽白熊鷲は最終的に神功皇后に滅ぼされていますが、ここから地名が誕生したとする説話もあります。
今回は大和王権と戦った記録がある九州の羽白熊鷲を解説します。
大和王権に従わない
羽白熊鷲の正体ですが、九州の豪族の一人だと考えるべきでしょう。
仲哀天皇の時代に熊襲が反旗を翻し、仲哀天皇が九州に上陸し討伐しようとしました。
日本書紀だと熊襲が貢物を送らなくなり背いたと書かれていますが、実際には羽白熊鷲や田油津媛なども熊襲に呼応したと見るべきだと感じています。
仲哀天皇が亡くなり神功皇后が中臣烏賊津を審神者としてお祓いをし、鴨別が熊襲を討つと、熊襲は直ぐに降伏しました。
しかし、熊襲が降伏しても荷持田村の羽白熊鷲は大和王権に対し恭順の意を示さなかったわけです。
尚、荷持田村は現在の福岡県甘木市大字野鳥だと考えられています。
羽白熊鷲は皇命に従わず、人民から掠め取ったとあり、悪政を布いていたかの様な記述もあります。
しかし、敵の事を悪く言うのは古来から普通に行われている事であり、羽白熊鷲は必ずしも民衆を苦しめていたとは限らないはずです。
松峡宮と御笠
神宮皇后は3月17日に羽白熊鷲を討つために香椎宮から、松峡宮に移ったとあります。
松峡宮への道中でつむじ風が吹き、御笠が吹き飛ばされた事で、御笠と名付けられました。
現在、福岡県太宰府市御笠という地名があり、ここで神功皇后の笠が飛ばされたという事なのでしょう。
神功皇后が香椎宮から移った松峡宮は、現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田にある松峽八幡宮だと考えられています。
神功皇后の軍は羽白熊鷲に攻撃を仕掛けるべく南下した事になります。
羽白熊鷲の最後
神功皇后は20日に層増岐野に行き、兵を挙げて羽白熊鷲を討ち取ったとあります。
これを考えると神功皇后が香椎宮から羽白熊鷲を討つために出発してから、僅か3日で討ち取られた事になります。
この時に神功皇后が側近らに「熊鷲を討ち取り心安らかになった」と言われ、この地を「安」となったとあります。
この「安」というのが現在の福岡県筑前町ではないかと考えられています。
筑前町は夜須町と三輪町が合併して誕生した町です。
層増岐野の謎
層増岐野で羽白熊鷲は討たれたような記述があります。
しかし、層増岐野の場所がよく分からない状態です。
一説によると層増岐野は糸島市雷山であり別名が曽増岐山(そそぎやま)と呼ばれており、ここが層増岐野ではないか?とも考えられています。
ただし、福岡県の糸島市は羽白熊鷲からは、それなりに離れた距離にいて、神功皇后の軍と羽白熊鷲の軍が雷山で戦闘を行うのは不自然だとも感じました。
辻褄を合わせるのであれば、熊襲が大和王権に降伏した時点で、羽白熊鷲は勝ち目がないと判断し雷山に逃亡したのかも知れません。
こうした情報が神功皇后の元に入り、神功皇后は現在の夜須に本陣を置き、部下に羽白熊鷲の追撃を行わせた様にも感じています。
神功皇后のお腹に応神天皇がいるのであれば、神功皇后が自ら追撃を行うのは難しいと感じました。
羽白熊鷲の逃げ足は想像以上に早く雷山まで逃亡し、余りにも素早く翼があるのではないか?と考えられ日本書紀の「強健で翼があり高く飛ぶ事が出来る」とする記述に繋がった様にも感じました。
しかし、最終的には羽白熊鷲は雷山まで追い詰められて討たれ、九州で大和王権に従わない勢力は山門の田油津媛と兄の夏羽だけになってしまったのでしょう。
尚、福岡県朝倉市あまぎ水の文化村に羽白熊鷲の塚がある様です。