石塔範家は石塔義房の子であり、関東庇番の五番頭人にも選ばれています。
松井優征先生が描く「逃げ上手の若君」にも登場し、下記の言葉が名言になっています。
「教えてやろう。脳内にいる女こそが男を強者に育てる事を」
「見くびるな。俺は現実の女なぞに興味はない」
ただし、当然ながら史実の石塔範家が、この様な言葉を言ったとする記録もありません。
自分の甲冑に鶴子の絵を描いたなども記録もないわけです。
尚、史実の石塔範家を見ると、関東庇番五番頭人になったこと以外は分からない状態です。
歴史を見れば父親の石塔義房や兄弟の石塔頼房、石塔義憲の方が活躍していますが、逃げ若の影響で石塔範家が石塔氏の中で最も目立つ存在になってしまったと言えるでしょう。
尚、この記事は右京大夫政元氏の論文を読もうシリーズをベースに書きました。
動画に関しては、記事の最下部にあり視聴してみてください。
関東庇番・五番頭人
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、足利直義は成良親王を奉じて鎌倉府の長官となります。
この時に関東庇番の五番頭人になったのが、石塔範家です。
尚、関東庇番のメンバーは次の様になっています。
渋川義季 | 岩松経家 | 吉良貞家 |
一色頼行 | 石塔範家 | 吉良満良 |
関東庇番のメンバーを見ると、岩松氏は新田氏の庶流ですが、渋川氏や吉良氏などは足利一門の中でも名門であり、石塔範家は家格が低く、割と肩身の狭い思いをしていたのかも知れません。
尚、一色氏も家格は低いですが、苗字になっている地の地名が分かっており、石塔氏よりも経済的に裕福だった可能性もあるはずです。
それでも、鎌倉時代に何をしていたのかも分からない様な、石塔氏の関東庇番は抜擢と言ってもよく、石塔範家は出世したと言えそうです。
丹波左近将監範家
以外に思うかも知れませんが、関東庇番に石塔範家と書かれた記録があるわけではありません。
関東庇番の「定文交名」で「丹波左近将監範家」と書かれており、これが石塔範家だと考えられています。
尊卑分脈に石塔義房の子に石塔範家がいる事が分かっており、丹波左近将監範家が石塔範家だとされているわけです。
父親の石塔義房は駿河などの守護代をしており、丹波とは無関係に思うかも知れませんが、関東庇番一番頭人の渋川義季の父親が渋川貞頼であり、丹波守になっています。
こうした理由から、山田徹先生は石塔範家が渋川貞頼の養子に、なっていたのではないかとも考えました。
尚、関東庇番の渋川義季や岩松経家が、北条時行との戦いで戦死しており、吉良貞家は奥州管領になるなどしていますが、石塔範家がこの後にどうなったのかもよく分かっていません。
石塔氏の動画
石塔氏の動画になっています。
この記事の元ネタになっている右京大夫政元氏の動画です。
視聴してみる事をお勧めします。