故事成語

衣食足りて礼節を知るの故事と意味

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前衣食足りて礼節を知る
出典管子(牧民)
コメント為政者の為の言葉でもある。

衣食足りて礼節を知るは春秋時代の管仲の言葉だとされています。

後述しますが、元の言葉は管子の牧民編の一文である「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」です。

衣食足りて礼節を知るの意味としては「生活(衣食住)が豊かになってはじめて礼節を覚えられる様になる」と訳すのが妥当でしょう。

現代にも通じる至高の名言に思うかも知れませんが、実際には春秋時代の時代背景と合致していないなどの問題もあり、管仲の言葉ではないとする指摘もあります。

尚、衣食足りて礼節を知るは、言うのは簡単ですが、民を富ませるのは難しいとする指摘もあり、今回は管仲(管子)では、どの様にして民を富ませようとしたのかも合わせて解説します。

衣食足りて礼節を知るの故事

衣食足りて礼節を知るは、春秋時代の名宰相である管仲の思想の一つだとされています。

管仲の著作と言われている管子に「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という言葉があり、これが短く訳したのが「衣食足りて礼節を知る」です。

斉の管仲は富国強兵を目指し、斉の桓公を覇者に押し上げた人物だとされています。

周王朝では祭祀が重んぜられており、礼節を大事にしました。

しかし、管仲は礼節や儀礼に心を配るよりも先に、物質的な豊かさを得る必要があると説いたわけです。

飢えている人に礼節を説いても、馬の耳に念仏であり、聞く耳は持たれないでしょう。

管仲はまずは人々を裕福にさせ、国力をつけて、その後に礼節を行い諸侯からの信頼を得ればいいと考えた事になります。

こうした管仲の言葉が「衣食足りて礼節を知る」となり故事として、現代にまで生き続けました。

衣食足りて礼節を知るは為政者として、心がけるべきものだとも言えるでしょう。

衣食足りて礼節を知るを現代に置き換えると

衣食足りて礼節を知るの原文は、先にも述べた様に「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」です。

この言葉を現代に置き換えれば「給料が十分にあり、法律による善悪が理解出来ていれば、恥を理解し、資産が十分にあれば社会的な秩序を保つ行動が出来る」と言った所なのでしょう。

現代でいえば、その日暮らしの貧しい人に、礼を説いても聞き入れる事の難しさも指摘しています。

本当に管仲の言葉なのか

管仲が生きた春秋時代では、農民に礼節を求めるのは稀だった様です。

春秋時代は貴族たちが各々で領地経営を行っていました。

農民は貴族たちに従属する身分だったわけです。

西周時代にも農奴がいましたが、春秋時代になっても農奴は存在していました。

戦国時代に入ると、体制が代わり農地経営は農家が独立して、任される様になります。

こうした中で新たなる利益を求めて、移住する人が増加し、移住者にも礼節が求められる様になりました。

残念に思うかも知れませんが、衣食足りて礼節を知るは管仲の言葉では無かったのかも知れません。

春秋時代の体制と管子の言葉の時代背景があっておらず「衣食足りて礼節を知る」は、管子の言葉では無かったとする説も強くあります。

現代では大半の専門家は、管子の言葉は管仲の言葉ではないと考えている現実もあります。

管仲の経済政策

衣食足りて礼節を知るを口で言うのは簡単ですが、実際に管仲が国を富ませる為に行ったとされる事例を紹介します。

経済政策

管子では貨幣は君主の道具としました。

貨幣を利用して富と財の確保を行い、民の経済生活を制御し天下太平を目指すとしています。

管子では君主はインフレとデフレの経済政策を行うべきだとしました。

デフレでは国の貨幣の9割が君主の手にあり、1割が民衆の手にあるなら、貨幣の価値が上がり物価は下がると言います。

逆にインフレでは君主が寡兵を用いて万物を購入すれば、貨幣は民衆へと流れ、物資は君主の元に集まり、物価が上がるとしました。

衣食足りて礼節を知るを実行する為には、適切な経済対策は必須だと言う事なのでしょう。

法律

管仲は法律により民を富ませようとしたと考えられています。

管氏によると法律を官府が厳密に施行し、それにより国家が安定すると述べました。

つまり、管仲は法治国家として、制定した法を守らせる事で、治安をよくしようとしたのでしょう。

富国強兵は、単に農業や商業が活発になればよいというものではなく、法律も重視しました。

衣食足りて礼節を知るを「法律」の面からのアプローチしようとしたわけです。

管仲は当時はあやふやであり、上位層しか知られていなかった法律を、文字で分かる様にし成文法にしたとも言われています。

しかし、成文法を最初にやったのでは、100年以上も後の時代である鄭の子産だとも考えられています。

こうした理由から成文法は管仲の政策ではないともされていますが、衣食足りて礼節を知るを為すためには、法律は重要です。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細