春秋戦国時代

華父督は主君を誅すも要領よくやった

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宮下悠史

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名前華父督
生没年不明
コメント孔父嘉の妻を奪った。

華父督は宋の大宰を務めた人物でしたが、孔父嘉の妻を自分のものにしようと乱を起こしました。

孔父嘉と宋の殤公は、華父督により殺害されています。

華父督は孔父嘉の妻も奪いました。

この後に、華父督は斉、魯、鄭、陳の諸侯に賄賂を贈り懐柔し、宋の荘公を立てる事になります。

華父督は宋の荘公の宰相になっており、乱は起こしましたが、要領よくやったと言えそうです。

華父督と孔父嘉の妻

春秋左氏伝の魯の桓公元年(紀元前711年)によると、宋の大夫の華父督は路地で孔父嘉の妻を見かける事になります。

華父督は思わず見とれてしまったのか、孔父嘉の妻が通り過ぎても、じっと見送り「美女だ。しかも、色っぽい」と述べたとあります。

史記でも大宰の華督が孔父督の妻を見て、見とれてしまった話が掲載されています。

この時に、華父督は孔父嘉の妻を、自分のものにしようと考えとされるのが一般的です。

国民を扇動

史記や春秋左氏伝には、華父督が孔父嘉の妻を自分のものにする為に動いた話が掲載されています。

華父督は、次の様に国内に宣伝しました。

※史記 宋微子世家より

華父督「宋の殤公が即位してから10年しか経っていないのに、11度も戦争を行っている。

民にとっては耐え難い事である。

これは孔父嘉に原因だ。

儂は孔父嘉を誅し、民を安楽にさせたいと思う」

華父督は国民を扇動し孔父嘉を非難したわけです。

当時は宋の殤公の時代は宋と鄭の関係が悪化し何度も戦争を行っており、国民は耐えられなくなっており、そこに孔父嘉がつけこんだ事になります。

尚、史記の宋微子世家では、この年の出来事として、魯の国人が魯の隠公を誅した事を記録しました。

妻を奪う

紀元前710年に華父督は孔父嘉を滅ぼし、その妻を奪いました。

この事を知った宋の殤公は怒りますが、華父督は恐れ宋の殤公をも殺害しています。

史記や春秋左氏伝を見ると華父督は、孔父嘉の妻を奪う為だけに、邪魔な孔父嘉と宋の殤公を殺害した事になっています。

しかし、史記や春秋左氏伝にある様に孔父の妻を路地で見つけ「見とれてしまった」などの話は、その場所にいた者しか分からず、事実だとは言い難いと思いました。

ただし、宋の殤公や大司馬の孔父嘉が遂行しようとした戦争が上手くいかず、国民の求心力が低下していたのは事実なのでしょう。

華父督は国民感情が宋の殤公から離れている事を察し、孔父嘉共々殺害してしまったと見る事も出来ます。

ここで、孔父嘉の妻が美人だという事に気付き、自分のものにしてしまった事で、孔父嘉の妻を奪う為とする話が出来上がったのではないでしょうか。

諸侯に賄賂を贈る

華父督は宋の殤公を誅しましたが、自ら即位するわけにも行かず、鄭にいた公子馮を招き宋の荘公として即位させました。

春秋左氏伝には、華父督が魯に郜の大鼎を贈り魯の桓公に献上したとあります。

魯の桓公は華氏の立場を立てたとあり、華父督は懐柔に成功しました。

さらに、斉、陳、鄭にも賄賂を贈り懐柔しています。

華父督は宋の荘公の宰相に収まりました。

多額の賄賂を諸侯に贈ったとは思いますが、華父督は上手くやったと言うべきでしょう。

この後に、華父督の記録がなく、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

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