周の東遷において、携王即位のきっかけを作るなど重要な動きを見せたと言えます。
しかし、周の平王と携王の二王朝並立の話は史記には無く、キーマンにも関わらず知名度はかなり低いと言えます。
周の幽王に仕えた虢石父なる人物がいますが、虢石父と虢公翰が同一人物とする説もあります。
虢公翰の本名は虢翰であり、石父は字だとする説です。
虢公翰に関しては資料が少なすぎて記録は殆どないと言ってもよく、分かっている事は極端に少ないと言えます。
今回は西周時代と春秋戦国時代の初期に活躍した虢公翰を解説します。
西虢の君主
虢公翰は西虢の君主だと考えられています。
こうした事情から虢公翰の父親が虢石父ではないかとか、虢公翰と虢石父は同一人物だったのではないかと考えられているわけです。
虢公翰と虢石父の関係に関しては明確な記録がなく分からないとしか言いようがありません。
しかし、周の二王朝並立時代において虢公翰がキーマンだった事は間違いないでしょう。
周の東西分裂
周の幽王は褒姒を寵愛し申后と太子の宜臼を廃嫡し、褒姒の子である伯服を太子としました。
これにより周と申は対立関係となり、宜臼派が結成されました。
西虢の虢石父は周の幽王や褒姒を支持しており、申侯とは対立する事になります。
西周王朝は分裂しますが、幽王と申侯の戦いは申の勝利となり幽王は命を落としました。
この時に虢公翰は幽王の子である余臣を擁立し周王として立てる事になります。
西虢は幽王派であり申とは対立していた事から、虢公翰は余臣を周王として擁立する以外に道が無かったのでしょう。
尚、竹書紀年では虢公翰は携の地で周の携王を擁立した事になっていますが、繋年では携恵王を虢の地で擁立した事になっています。
竹書紀年と繋年で記述の差はありますが、虢が中心となり携王の擁立に繋がった事は間違いなさそうです。
因みに、西周王朝が崩壊し混乱する中で鄭の桓公は成周の軍勢を率いて、東虢や鄶を滅ぼし一大勢力となりました。
この時点では周王の後継者候補としては虢公翰が擁立した周の携王、申侯が擁立する周の平王、周の厲王の末子で周の宣王の弟である鄭の桓公がおり、三者鼎立状態だったわけです。
虢公翰は寝返っていた!?
竹書紀年を見ると虢公翰の名前は存在していますが、これ以降に虢公翰がどうなったのかは分かりません。
しかし、虢公翰やその子孫がどの様な動きをしたのかのヒントがあります。
周の幽王が紀元前771年に殺害されて周は完全に分裂しましたが、紀元前762年に虢季氏組が携王の紀年に従った盤を作成しています。
虢季氏組は名前から分かる様に、虢公翰とは同族だと考えられ、この時点では虢は周の携王側だった事が分かります。
しかし、759年の凱旋を記念した虢季子白盤では、周の平王の紀年が使われているわけです。
虢季子白盤が平王の紀年を使うのは、虢が周の平王側に寝返ったからだとされています。
759年までには虢は携王側から、平王側に鞍替えしていた事になるでしょう。
759年の段階で虢公翰が生きていたのかは不明ですが、虢が平王側に寝返ったのは事実なのでしょう。
ただし、寝返った虢は虢公翰の西虢ではなく、別の虢の勢力だったのではないかとする説もあります。
虢が寝返った理由に関しては不明ですが、760年よりも前くらいで鄭の桓公が亡くなっており、鄭の武公や晋の文侯などは周の平王を支持しました。
こうした状況を見て虢も携王に勝ち目はないと考え、平王に鞍替えしたのかも知れません。
周の平王も状況を見て過去の事は水に流した可能性もあります。
しかし、周の携王が亡くなったのは、紀元前750年であり、虢の勢力が寝返っても10年ほど存続した事になります。
それを考えると周の携王は虢が寝返っても、支持する勢力がそれなりにいたのでしょう。
尚、虢公翰に関しては、どの様な最後を迎えたのかなどは不明です。