鎌倉時代

糟屋宗秋は六波羅に忠義を尽くした

2025年3月30日

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宮下悠史

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名前糟屋宗秋(かすやむねあき)
生没年生年不明ー1333年
時代鎌倉時代
主君北条仲時
コメント最後まで六は乱探題に忠義を尽くした

糟屋宗秋は鎌倉時代の末期の武将であり、六波羅探題の戦奉行になった話があります。

元弘の乱がおきると幕府軍として、後醍醐天皇や楠木正成と戦いました。

足利尊氏の寝返りにより六波羅探題は窮地に陥り、糟屋宗秋は鎌倉を目指す様に北条仲時に進言しました。

これにより北条仲時、時益や皇族の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は近江を通り鎌倉に向かう事となります。

糟屋宗秋は武勇に優れており、敵を破りますが、最後は主君である北条仲時の最後を見届けると世を去っています。

六波羅の戦奉行

糟屋宗秋は太平記などの記録によれば、六波羅探題の戦奉行だった事が書かれています。

後醍醐天皇が笠置山で挙兵を行うと、糟屋宗秋は同じく六波羅の戦奉行である隅田通治と共に五百騎を率いて宇治の平等院に向かいました。

糟屋宗秋は招集された武士たちの記録係を行ったとあります。

幕府軍は笠置山に籠る後醍醐天皇や赤坂の楠木正成の軍に手こずりはしましたが、武士の集まりが非常によかった話があります。

太平記によれば幕府軍は「十万余騎」に達したとする記述まで存在する程です。

高橋又四郎の先駆け

笠置山の戦いが始まりますが、この時に高橋又四郎なる者が功名を焦り抜け駆けを行った話があります。

しかし、敵に包囲され失敗に終わり、さらに小早川なるものが高橋又四郎に代わり抜け駆けを行いますが、これも失敗に終わりました。

この時に糟屋宗秋は宇治にいましたが、ここで幕府軍が敗れたと知れ渡れば、幕府への求心力が下がると判断し、笠置山に向かう事になります。

幕府軍は苦戦はしましたが、関東から足利尊氏の援軍がやってきた事もあり、戦いに勝利しています。

戦いが終わると糟屋宗秋は高橋刑部左衛門と共に六波羅に現れました。

ここで捕虜になった人々が諸大名に預けられる処置が取られたわけです。

糟屋宗秋の進言

後醍醐天皇は隠岐に流されますが、倒幕運動は護良親王楠木正成を中心に行われる事になります。

護良親王と楠木正成が挙兵し、幕府軍は再び鎮圧に入る事になります。

しかし、楠木正成の千早城での奮戦が光り、幕府軍を寄せ付けませんでした。

鎌倉幕府の首脳部は名越高家と足利尊氏を近畿に向かわせますが、名越高家は呆気なく戦死し足利尊氏は官軍に寝返りました。

六波羅探題の北条仲時や北条時益は朝廷軍に囲まれ窮地に陥る事になります。

この時に、朝廷軍では東だけをわざと開け、敵が逃げる道を用意しておいたわけです。

こうした中で糟屋宗秋は六波羅館の前に行くと、次の様に述べました。

※太平記より

糟屋宗秋「味方の軍勢は次第に減って行き、今では千騎ほどしかいません。

この数では敵を防ぐ事は不可能でございます。

東側だけは敵が未だに包囲されておらず、皇族のお供をして一旦は関東にお入り下さい。

その上で再び大軍を組織し京都を攻めるべきでしょう。

佐々木時信が瀬田の橋を警護しており、連れて行けば手勢も十分な数となります。

佐々木時信がいれば近江では手出しされる事はなく、美濃、尾張、三河、遠江には敵がいるとの情報も入ってはいません。

無事に鎌倉まで辿り着ける事が出来るでしょう。

鎌倉に着いたら逆賊の討伐を猶予なく実行して下さりますように。

平地の城で皇族をお囲いし、名将が匹夫の手に掛かるのは残念なことです」

糟屋宗秋は六波羅館では守り切る事が出来ないと判断し、鎌倉に逃れる様に進言したわけです。

最後の戦い

敵を蹴散らす

北条仲時と時益は糟屋宗秋の進言を聴き入れ鎌倉を目指す事となります。

しかし、京都で既に六波羅南方に属していた北条時益が命を落としました。

北条仲時は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らと共に鎌倉を目指し、背後の敵に備えとして佐々木時信を配置し、糟屋宗秋には先陣を任せたわけです。

糟屋宗秋の後に天子の神輿が続いており、糟屋宗秋にとってみれば非常に名誉な事でした。

糟屋宗秋は本隊よりも先に進みますが、番場で数千の敵が現れ、糟屋宗秋は次の様に述べています。

※太平記より

糟屋宗秋「悪党どもが落武者の具足を剥ぎとろうとして集まってきたのであろう。

激しく攻撃すれば、命をかけて戦う様な事にもなるまい」

糟屋宗秋は敵を落武者狩りだと判断したのでしょう。

糟屋宗秋は攻撃命令を出すと敵はあっという間に崩れてしまい、これで勝負に勝ったと糟屋宗秋は思った事でしょう。

しかし、敵は後軍に逃げ込み、新たなる五千程の兵が待ち構えていたわけです。

絶望的な戦力差

既に糟屋宗秋の軍は疲労困憊であり、敵の第二陣に対し奮戦する余力は残ってはいませんでした。

弓矢で応戦しようとしても、敵の数が多すぎて全ての矢を使い果たしても勝てる様な状態ではなかったわけです。

幸いにも糟屋宗秋は敵に発見されておらず、後からやってくる光厳天皇や北条仲時を待つ事にしました。

この時に、北条仲時は前方で戦いが起った事を察知し、自ら馬で駆けつけてきたわけです。

糟屋宗秋は北条仲時に次の様に述べました。

※太平記より

弓矢を使う者が死ぬべき所で死ねねば恥を見ると伝えられています。

都で討死すべき存在であった我らが、1日の命を惜しみここまで来ました。

名もなき田舎武士により屍を野原にさらすのは無念な事です。

敵がいるのがここだけであれば、命を賭して攻めれば敵を打ち破り通過する事が出来ます。

しかし、土岐氏は謀反の首謀者でしょうから、美濃国を通る事は出来ないでしょう。

さらに、吉良氏は何度召してもやって来ず、遠江で待ち構えていると聞いております。

土岐氏や吉良氏を敵にしては千万騎の軍勢があっても難しいと考えるべきです。

今の軍勢を見ても我らは落人となり、人馬ともに疲労を隠しきれていません。

矢一本放つほどの力が残っているのかも疑問です。

この後に、何処まで逃げ延びられるのかも分かりませんし、この上は後軍の佐々木勢が追いつくのを待ち、近江に戻り城に籠り関東軍が上洛するのを待つべきでしょう。

糟屋宗秋は佐々木時信の到着を待ち、近江の城に籠城する様に進言したわけです。

北条仲時も糟屋宗秋の事を疑いつつも、地殻の辻堂で待ち佐々木時信と合流した上で策を決める事としました。

糟屋宗秋の最後

後陣にいた佐々木時信ですが、北条仲時が野伏により討たれたとする情報が入って来ました。

誤情報だったのですが、佐々木時信は愛知川から京都に戻り敵に降伏してしまったわけです。

北条仲時は佐々木時信がいつになってもやって来ず、逃げ場がないと悟り自害しました。

梅松論では北条仲時は光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇の安全を確保した上で、自害した事になっています。

糟屋宗秋は北条仲時の自害を見た後に、北条仲時が自害に使った刃を持ち次の様に述べています。

※太平記より

この宗秋こそが先に自害し冥途の道案内をしなければならぬのに、殿が先に亡くなってしまったのは無念として言いようがない。

この世ではお命が尽きる間際をお見せいただきました。

この先は冥途だからと言って見捨てる事が出来るはずもない。

暫くお待ちください。

私も死出の山のお供を致します。

この時に糟屋宗秋は北条仲時が使った刃を使い自害し、最後を迎えました。

太平記によると、北条仲時の膝に抱きつく形で、俯せに倒れたと言います。

糟屋宗秋が亡くなると四百三十二名のものが切腹し世を去りました。

この様子を見ていた光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇などは驚き声を発する事も出来なかった話があります。

糟屋宗秋の最後は壮絶なものであり、光厳天皇ら皇族にとってみれば地獄の風景だったのかも知れません。

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