名前 | 菊池則隆 |
生没年 | 生年不明ー1081年 |
一族 | 父:藤原政則 子:経隆、保隆、政隆 |
コメント | 菊池氏の始祖 |
菊池則隆は平安時代の中頃の人物であり、肥後国の菊池郡に下向したと伝わっています。
菊池則隆は元は藤原則隆を名乗っていましたが、肥後の菊池郡で暮らし姓を菊池に改めた話が残っています。
関白にもなった藤原道隆の子孫が菊池則隆ともされています。
菊池則隆は菊池氏の祖となり、菊池氏は平安時代に始まり戦国時代まで途絶える事無く続きました。
尚、熊本県菊池市には菊池則隆公墓があり、現在もみる事が出来ます。
菊池則隆の出自
菊池則隆は菊池武朝中状の中で「菊池則隆は関白藤原道隆の四代の後胤」と記録されています。
これを信じるのであれば、菊池則隆は藤原道隆を祖とする人物になるのでしょう。
菊池則隆が祖とする藤原道隆は藤原道長の兄で藤原北家・関白まで務めた人物でもあります。
肥後國志でも菊池則隆が「藤原北家道隆の子孫」と書かれており、菊池則隆が藤原北家を祖とする一族だと認識されていた事が分かるはずです。
江戸時代の大日本史では藤原隆家の孫の則隆が肥後に赴き菊池郡に住んだ事が書かれています。
藤原隆家は刀伊の入寇でも活躍した人物として有名です。
ただし、別説として則隆(則高)と政隆(政高)は肥後国人であり、藤原道隆の従者に過ぎなかったとする説もあります。
近年では菊池氏は藤原道隆の従者だった説が有力の様ではありますが、菊池氏の一族は権威付けの狙いもあり藤原道隆を祖だとしていたのでしょう。
菊池郡に下向
平安時代の中頃に藤原則隆は肥後の菊池郡に下向した事になっています。
菊池則隆は菊池川流域の深川北宮地区を本拠地としたと考えられています。
藤原則隆が菊池郡に到着すると、菊池川から吉兆龍が現れ出迎えてくれた話も残っています。
藤原則隆は菊池の地が気に入り菊池則隆と姓を変えました。
ただし、吉兆龍が出現した話は当然ながら創作だと考えられています。
菊池則隆が土着の人物であれば、お出迎えの吉兆龍が出るはずもなく、創作の様にしか思えない現実があります。
吉兆龍の話は菊池氏の権威付けの話にも繋がって来るのでしょう。
それでも、肥後は律令制の九州にあって延喜式では唯一の大国となっており、菊池氏は肥後国を本拠地とし勢力を拡大していく事になります。
菊池氏遺跡
菊池則隆は深川北宮地区に居を構えたと考えられており、菊池市では菊池則隆がいたとされる場所を市指定文化財に指定していました。
2012年に菊池市では調査を始め13世紀代の遺物などが発見されています。
ただし、菊池則隆の時代まで遡るのは難しかったようです。
それでも近隣の発掘調査から船着き場なども見つかっており、菊池氏が河川交通を抑えていたとも考えられています。
尚、これらの遺跡は2024年2月21日に菊池氏遺跡として国指定史跡に正式に決定しました。
菊池則隆公墓
熊本県菊池市に菊池則隆公墓があります。
名前からも分かる様に菊池則隆公のお墓という事になっています。
菊池則隆は1081年に亡くなり深川村上原に埋葬されたともされていますが、現在の菊池則隆公墓は平安時代からあったわけではありません。
菊池則隆公墓は江戸時代の1818年に建てられたとされています。
名前 | 住所 |
菊池則隆公墓 | 熊本県菊池市深川14 |