三国志 未分類 魏(三国志)

麴城の戦い

2023年4月30日

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宮下悠史

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麴城の戦い西暦249年
勢力
指揮官陳泰、郭淮姜維、句安、李歆
兵力・損害不明不明
勝敗

麴城の戦いは西暦249年に起きた魏と蜀の戦いです。

蜀では費禕が政務を執っていた時代であり、姜維が北伐を行い麴山に句安李歆らを配置しました。

これにより麴城の戦いが勃発する事になります。

姜維の動きに対処する為に郭淮や陳泰が策を練り、結果的に姜維を撤退に追い込み句安、李歆らは魏に降りました。

今回は西暦249年に起きた蜀と魏の戦いである麴城の戦いを解説します。

尚、麴城の戦いの戦いは別名として、麴山の戦いとも呼ばれています。

麴城の戦いで見事な策を立てた陳泰ですが、陳羣の息子であり陳泰に関する記述は、正史三国志の陳羣伝に書かれています。

麴山での戦いも陳羣伝に詳しいです。

戦いの経緯

麴山の戦いがあった西暦249年は魏では政変があった年でもあり、高平陵の変により司馬懿が権力を手中に収め皇族の曹爽が亡くなっています。

曹叡は曹芳の補佐として司馬懿と曹爽に任せた事情もあり、司馬懿に権力が集中したわけです。

こうした情勢の中で夏侯覇は蜀に亡命し、魏でも司馬懿に対する不穏な空気が流れていました。

蜀の政務を執る費禕は、自分達は諸葛亮に遠く及ばないと北伐には否定的でしたが、羌族・胡族が蜀に靡いた事で姜維の北伐を許しています。

蔣琬死後も軍功を立て続けた姜維に対し、北伐反対派の費禕も抑え込むのが難しくなっていた様にも感じました。

姜維の蜀軍に対し、郭淮や雍州刺史となった陳泰が対応する事となります。

陳泰の策

蜀の姜維は北伐を開始すると、麴山を利用して二つの城を築き牙門将の句安李歆に守りを固めさせています。

麴山に築城した城は後の記述を考えると、麴城と呼ばれる事になったのでしょう。

姜維は麴山を句安、李歆に守備させただけではなく、羌族の人質を集め諸郡に侵入し威圧しました。

姜維の動きに対し、魏では征西将軍の郭淮が陳泰に対応策を訪ねると、次の様に述べました。

※正史三国志 陳羣伝より

陳泰「麴城は堅固ではありますが、蜀からは険しい道を隔て遠く離れており、この地に兵糧を輸送するにも蜀では、かなりの労力となっている事でしょう。

羌族は姜維の命令に嫌々従っているだけであり、積極的に協力しているわけではないはずです。

よって、麴城は包囲させ行えば、無血で陥落させる事も出来ます。

麴城の救援に蜀軍も現れるでしょうが、山道は険阻であり、兵を動かせる様な土地ではございません」

陳泰は蜀軍は麴山まで兵糧を輸送する事が困難だと看過しており、麴城には兵糧攻めが有効だと述べたわけです。

郭淮は陳泰の意見を聞き入れ、陳泰には討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾らを統率させ、軍を進めて麴城を包囲しました。

戦わずに勝つのが至上

陳泰は麴城を包囲し、運送路と城外の流水を断ち切らせたとあります。

句安や李歆は兵糧が不足してきた為か、陳泰の軍に戦いを挑みました。

しかし、陳泰は最初から蜀軍を飢えさせるのが目的であり、句安や李歆らの挑発に乗らなかったわけです。

句安ら蜀将は時間が経てばたつほど、食料が不足し不利になる事は明らかであり、困窮し食料を配分し、水の代わりに雪を集めて代用し麴城の戦いを継続しました。

ここで姜維が麴城の救援に現れたわけです。

姜維は牛頭山から出て陳泰と対峙しました。

ここで陳泰は次の様に述べています。

陳泰「兵法では戦わずに勝つ事が至上とされている。

ならば、牛頭の道を断ち切り、姜維の帰路が無くなれば、捕らえる事も出来るのではなかろうか」

陳泰は砦の守を固め「決して戦ってはならない」と厳命しました。

さらに、郭淮には使者を派遣し自分(陳泰)は白水を渡り水路に沿って東に向かうと告げ、郭淮には牛頭に向かい姜維の退路を断って欲しいと願います。

陳泰は句安や李歆を捕虜にするだけではなく、姜維まで捕えてしまおうと考えたわけです。

郭淮は陳泰の策に賛成し、諸軍を率いて洮水まで進軍しました。

姜維は陳泰の策に気が付き麴山に救援に行けば、退路を断たれると気付きます。

姜維は麴城の救援は不可能と判断し、撤退しました。

これにより麴城は兵糧が少ない状態での、孤立無援の籠城となってしまい句安や李歆は魏に降伏する事となります。

陳泰の策により麴城の戦いは魏軍の勝利となりました。

姜維が麴城の救援に向かわなかったのは、費禕が姜維に与えた兵が少なすぎたのが原因とする説もあります。

実際に費禕は北伐反対派であり、姜維に預けた兵は多くても1万程だったとも伝わっています。

麴城の戦いは陳泰の優秀さを語る内容でもあり、魏の人材が豊富だという事が分かるはずです。

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