名前 | 吉良満家 |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:吉良貞家 兄弟:吉良治家 子:持家、貞晴 |
コメント | 奥州管領吉良氏の二代目 |
吉良満家は南北朝時代の人物です。
父親の吉良貞家が奥州管領に就任すると、共に奥州に下向する事になります。
父の吉良貞家が亡くなると奥州管領になりました。
奥州管領になると直ぐに石塔義憲に多賀城を落されるなどもありましたが、直ぐに奪還しています。
室町幕府の中央では新たな奥州管領として斯波家兼を派遣してきました。
斯波家兼の子孫は奥州管領の座を継承していきますが、吉良満家の勢力は振るわなくなります。
吉良満家には父親の吉良貞家程の器量が無かったとする評価もありますが、別説として奥州管領の権限が弱く短期間で弱体化してしまったとする評価もあります。
吉良満家と石塔義憲
吉良満家は吉良貞家が亡くなると奥州管領となりました。
奥州管領に就任してから比較的早い時期に、過去に奥州に覇を唱えた石塔氏の石塔義憲が、突如として多賀国府を攻撃したわけです。
突然の事であり、防備を固める事が出来なかったのか、多賀国府は陥落しました。
吉良満家は伊達郡に逃げ延び伊達宗遠を頼ったとも考えられています。
しかし、吉良貞家は直ぐに反撃に移りました。
多賀城を取られてから三日後には、吉良満家が動き出しています。
吉良満家は和賀氏の協力を取り付ける事にも成功しており、一気に多賀城を奪い返しました。
多賀国府を奪われてから奪還するまでに、一カ月も掛からなかったとされています。
奥州管領としての吉良満家
多賀国府を奪還した吉良満家ですが、迅速に行動した和賀常陸介に対し、加美郡大池郷の半分を宛行ました。
和賀平内左衛門尉にも、名切屋郷の半分を宛行います。
他にも、1356年には伊達政長に伊達郡桑折郷を安堵しました。
岩城郡の伊賀盛光にも本領及び当知行地の安堵を行っています。
これらは吉良満家が奥州管領としての職権を行使したものです。
吉良満家と斯波家兼
1354年になると、室町幕府では斯波家兼を奥州管領として派遣してきました。
奥州管領は再び二人制となったわけです。
斯波家兼を奥州に派遣したのは、奥州管領も元々二人制であり、鎌倉幕府の二人制を好んだなどもあり倣ったとも、吉良満家を能力的に心配したなどの声もあります。
ただし、斯波家兼は1356年に亡くなった事が分かっており、吉良満家よりも先に亡くなったのは明らかでしょう。
斯波家兼の子息の大崎直持が奥州管領の座を継ぎました。
吉良満家の最後
吉良満家と大崎直持が奥州管領となりますが、この直後から吉良満家の動向が分からなくなります。
吉良満家は1356年の10月以降か、1357年の初め位に亡くなったと考えられています。
奥州管領の職務を行ったのは、数年に過ぎないのでしょう。
この後に、吉良氏の発行文書が激減しており、1367年頃には姿を消す事になります。
吉良満家は最後を迎えますが、後継者の吉良持家は幼く、吉良治家と吉良貞経の争いが起きたとも考えられています。
こうした内紛もあり、奥州吉良氏は歴史から姿を消していき、奥州管領は大崎氏が継承していく事になります。
※この記事は戎光祥出版の奥州管領斯波大崎氏及び、吉川弘文館の足利一門守護発展史の研究を元に作成しました。