名前 | 光明天皇 |
別名 | 光明上皇、光明法皇、豊仁親王、 |
真常恵、暦応皇帝、法安寺法皇、宇治殿など | |
生没年 | 1322年ー1380年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:後伏見天皇 母:西園寺寧子 |
コメント | 野望を持たず中継ぎの天皇に徹した。 |
光厳天皇の弟でもあり、中継ぎの天皇に徹しました。
生涯において治天の君になる事はなく、天皇新政も行っていません。
北朝の崇光天皇への譲位であっても、すんなりと退位しました。
正平一統が破棄された時は、光厳上皇、崇光上皇らと南朝の捕虜になりますが、最初に京都に帰還できたのが光明法皇となります。
今回は北朝の野望無き天皇である光明天皇を紹介します。
尚、光厳天皇と光明天皇の違いが分からないという人がいますが、光明天皇は光厳天皇の弟となります。
兄弟であり共に持明院統(北朝)の天皇だと言えるでしょう。
光明天皇の即位
豊仁親王(光明天皇)は元亨元年1322年に生まれた事が分かっています。
この時代は大覚寺統が優勢であり、治天の君が後宇多上皇、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王と言った状態であり、辛うじて持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)が次期皇太子の座についているに過ぎませんでした。
こうした事情もあり、持明院統は後伏見上皇、花園上皇らが団結し、量仁親王に帝王学を徹底して学ばせていた時期でもあります。
しかし、弟の豊仁親王は兄の量仁親王に比べると、帝王学は学ばなかった様です。
後醍醐天皇が元弘の変で隠岐に流されると、兄の量仁親王が即位しました。
しかし、鎌倉幕府は後醍醐天皇の反撃により直ぐに滅びており、後醍醐天皇による建武の新政が始まる事になります。
中先代の乱が終わると足利尊氏が建武政権から離脱し、各地を転戦するだけではなく、持明院統に接近しました。
足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に追い詰めると、光厳上皇を治天の君とし、豊仁親王を光明天皇として即位させています。
これにより北朝が誕生し、後醍醐天皇が後に南朝を開く事になります。
光明天皇と笛
光明天皇は1340年に御楽始を催しました。
この時に光明天皇が笛を演奏した事が記録に残っています。
持明院統では歴代に渡り重視して来た楽器は琵琶であり、光明天皇が笛を演奏したのは例外中の例外だったとも言えます。
光明天皇が笛を演奏したのには理由があり、光明天皇は琵琶を習得していなかったとされているわけです。
兄の光厳上皇は徹底した英才教育が成されましたが、弟の光明天皇は元々天皇になる予定もなく、帝王学も大して学んではいなかったと考えられています。
ただし、光明天皇が音楽を疎かにしていたわけではなく、1341年には神楽の秘曲を大神景茂から伝授されています。
光明天皇と唐橋公時
1342年に光明天皇の学問の師である唐橋公時が亡くなりました。
唐橋公時は儒学、尚書、論語など中国由来の学問を教えたとされています。
唐橋公時の先祖が菅原道真でもあります。
光明天皇は唐橋公時を尊敬しており、次の様に書き示しました。
※戎光祥出版・室町戦国天皇列伝より
私は幼少の昔より唐橋公時に学問の手ほどきを受けてきた。
即位後も世話になり続け、その教えは一字たりとも忘れることができない。
悲嘆に暮れて涙が止まらない。
流石に「唐橋公時の教えを一字たりとも忘れる事はない」は誇大表現だとは思いますが、如何に光明天皇が唐橋公時の教えを大事にしてきたのかが分かる言葉でもあります。
唐橋公時が亡くなった翌日には光明天皇は「先例違反になる」としながらも、宮中の「物音停止」を行い愁歎の志を表明しました。
さらに、翌日からは尚書并大学の講書を実践しています。
光明天皇が学問を実践するのは、唐橋公時への「はなむけ」だったのでしょう。
皇室にとって音楽や学問は帝王学の一つであり、重要なものでしたが、光明天皇も正面から向き合い熱心に学んだ事が分かるはずです。
光明天皇と有職故実
中世の公家社会では有職故実が重視されました。
有職故実とは朝廷や公家、武家の作法、法令、服装、慣習などの先例を指す言葉でもあります。
足利尊氏も部下に有職故実を確認した逸話が残っています。
皇室では朝儀の主催者として、先例を見つけ出し会を滞らせずに、速やかに開催される事が求められたわけです。
暦応五年(1342年)に光明天皇は五摂家の一人である一条経通に除目の作用を伝授する様に頼みました。
後代の一条兼良や一条冬良は有職故実の大家となっており、一条家では有職故実に関する積み上げがあったと言えるでしょう。
光明天皇は一条家を通じて積極的に、有職故実を学びました。
他にも、中原師守や洞院公賢などにも多く有職故実を諮問したとされています。
特に洞院公賢は光明天皇に近い立場におり、多くの記録を残しました。
中原師守は「師守記」、洞院公賢は「園太暦」でも有名です。
光明天皇と正月三節会
当時は正月三節会と呼ばれていた元旦節会、白馬節会、踏歌節会が重視されていました。
これらの行事は酒宴を催すなどし君臣関係を確認する儀式でもあったわけです。
当然ながら正月三節会には天皇の臨席が強く望まれました。
ただし、服喪の時期であったり何かしらの問題が発生すると、天皇は問題を理由に参加しないなどもあったわけです。
実際に光明天皇の時代にも興福寺の強訴により、春日大社の神木が洛中に入れられました。
こうした場合は略儀となる場合も多かったわけですが、光明天皇は行事に可能な限り参加していた事も分かっています。
勿論、病気(咳病)で参加出来ない事もありましたが、行事に関しては積極的に参加していたと見られています。
光明天皇の政務
洞院公賢の辞表
康永三年(1344年)の暮れに洞院公賢が左大臣の辞任を申し入れました。
当時はパフォーマンスで辞表を提出する者もおり、洞院公賢が本当に左大臣を辞めようと考えていたのかは不明です。
北朝の治天の君である光厳上皇は洞院公賢の辞表を受け取りはしましたが、半年以上が経過してから「受け付けない」と宣言し辞意を許しませんでした。
この返答に対し洞院公賢は「突然の事であり、先例に倣った適切な辞表返付時の振る舞いが出来ない」と困惑してしまいます。
ここで洞院公賢は光厳上皇に形式的な振る舞いを相談した話があり、この時に光厳上皇が「光明天皇が特に辞任に反対している」と述べました。
洞院公賢の朝廷人事に関しては、光明天皇の意向が強く反映したとされています。
貞和に改元
康永から改元が決まりますが、学者系の官人や上級貴族から新年号案が光明天皇の元に届けられました。
この時の候補になったのが「貞和」「文仁」「嘉慶」などです。
光明天皇は臣下の者達に「意見を一致させる様に」と指示し、その結果として貞和に改元する事が決定しています。
改元は天皇が関与するのが通常であり、光明天皇はしっかりと役目を果たしたと言えるでしょう。
尚、光明天皇が皇室としての行事以外で、政務に関わった話は殆ど存在しなかった事が分かっています。
政治というのは、利益配分や利害調整などもありますが、こうした政治に関わるものに関しては、光明天皇が口を出す事は殆どありませんでした。
むしろ、政治に関する部分は治天の君である光厳上皇が差配していたわけです。
貢馬御覧と見る治天の君
中世の天皇制においては、天皇ではなく治天の君と呼ばれる皇室の家長が実質的な執政者でした。
皇室の家長を所在を可視化する行事があり、これが貢馬御覧となります。
足利将軍家の家長が貢馬を誰に献上するかで、執政者が分かる仕組みです。
光厳上皇ー光明天皇→光厳天皇が治天の君
光厳上皇、光明上皇ー崇光天皇→光厳天皇が治天の君
光明上皇、崇光上皇ー後光厳天皇→後光厳天皇が治天の君
上記の図を見ると分かる様に、北朝の光明天皇が生きた時期に、光明天皇は一回も治天の君になっていない事が分かります。
正平一統前の光厳上皇が京都にいた時期は一貫して光厳上皇が治天の君を務め、正平一統が破棄され光厳、光明、崇光、直仁らが拉致された後は、後光厳天皇が一貫して治天の君となりました。
室町時代の天皇経験者の中で治天の君とならなかったのは、光明天皇と称光天皇くらいのものです。
光明天皇の退位
治天の君である光厳上皇は自分の子の興仁親王(崇光天皇)を即位させようと考えていました。
当然ながら光明天皇を退位させ、崇光天皇を即位させようとする計画です。
さらに、光厳上皇は崇光天皇の皇太子に、花園天皇の子である直仁親王にしようと考えたわけです。
この時に光厳上皇は足利直義を呼び寄せ相談し、直義は崇光天皇の践祚と直仁親王の立太子を申し出てくれたと言います。
光厳上皇は幕府の了承を得ると、花園法皇の元に行き、ここで花園天皇の了承を得たと考えられています。
これを見る限り、光明天皇は明らかに蚊帳の外であり、皇位継承に関わっていない事が分かるはずです。
光明天皇は自らの退位という時期であっても、ブレる事無く皇位継承に口を出さなかったのであり、中継ぎの天皇としての役目を全うした事となります。
光明天皇と崇光天皇は同居しており、関係も極めて良好だったとされています。
由奉幣
光明天皇は決定した譲位に従い崇光天皇の践祚が決まりました。
この時に光明天皇は由奉幣を実現出来なかった事を後悔していた様であり、洞院公賢に相談した話があります。
奉幣というのは、天皇が勅命で神社や山陵などへの捧げものを指します。
光明天皇は伊勢神宮に奉幣使を派遣したかったわけですが、道中の治安の悪化や費用などの面で実行出来ていなかったわけです。
南北朝時代は戦乱に時代であり、由奉幣が実現できてはいませんでした。
本来ならば光明天皇が即位した時に、奉幣使を派遣せねばなりませんでしたが、出来ておらず光明天皇にとっては心残りだったのでしょう。
しかし、光明天皇の考えは多くの公家に理解された様であり、奉幣使を伊勢神宮に派遣しました。
賀名生に連れ去られる
室町幕府内で足利直義と足利尊氏・高師直が対立し観応の擾乱が勃発すると、足利直義は南朝に降伏し高師直を討ちました。
足利尊氏は鎌倉に移動した直義を降伏させますが、南朝に降伏しており、正平一統がなったわけです。
こうした中で南朝は突如として正平一統を破棄し、京都を占拠しました。
足利義詮は逃亡し光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王らが捕虜となります。
洞院公賢の園太暦によると、後村上天皇が光厳天皇に八幡への移動を打診し、実行に移されたとあります。
さらに、近江での戦闘が激しくなると、光厳上皇らは八幡から東条に移りました。
当然ながら光明天皇も東条に移りますが、身の回りの世話をする女性が不足していた話があります。
佐々木道誉が何とか北朝の皇族を取り返そうとしますが、南朝は「何としても返すまい」としたのか、山奥にある賀名生に移しました。
北朝では後光厳天皇が即位し、皇族を取り返そうとせず長期化する事になります。
後醍醐天皇も比叡山に一時的に避難したりしていますが、数年というレベルで幽閉に近い状態になってしまった上皇は光厳上皇、光明上皇、崇光上皇くらいだともされています。
この期間に光明上皇は出家し、光明法皇となりました。
京都に戻る
文和四年(1355年)八月に、光明法皇が解放され京都に戻る事になりました。
光明法皇が三上皇の中で最初に京都に戻ったのは、政治に関して口出しを殆どせず、京都に還しても害がない存在だと考えたからでしょう。
南朝に拉致された光厳法皇らも1358年までには帰京しました。
帰京してからの光明法皇は当然ながら政治と距離を置き、仏道に邁進する事になります。
尚、光明法皇は夢窓疎石に帰依した人でもあります。
光明法皇の最後
光明法は伏見の保安寺に入り、深草の金剛寿院や大光明寺をおり、各地の遍歴し仏道に邁進しました。
俗世と離れた生活をするのは、光明法皇の希望でもあったはずです。
東坊城秀長による日記には、次の様に書かれていました。
※室町戦国天皇列伝からの引用
「今日、光明法皇がお亡くなりになった。
ここ最近は大和国長谷寺にいらしたので、そちらで葬儀は済まされるらしい。
年齢は六十一歳だということだ。
私は在位中の光明天皇にお仕えしたので、月日の移ろいを夢の様に感じ、悲嘆の涙は雨のようだ」
光明法皇の最後はひっそりとしたものだったのでしょう。
光明法皇は最後まで目立つことなく世を去りました。
光明天皇と後醍醐天皇
光明天皇と正反対の性格をしているのが、後醍醐天皇だとされています。
当然ながら兄の後二条天皇が崩御し、後宇多天皇により中継ぎの天皇とされた後醍醐天皇と、兄の光厳が治天の君で即位した光明天皇では当然ながら違いもあるでしょう。
しかし、後醍醐天皇は皇太子の邦良親王ではなく、自分の子を後継者にしたくて積極的に行動したのに対し、光明天皇は兄の光厳上皇の決めたレールに則り動いたわけです。
光明天皇は治天の君や天皇新政はなどは死ぬまで考えなかった事でしょう。
持明院統の光明天皇や花園天皇などは、中継ぎの天皇としての役割を見事にこなしました。
それと同時に、南北朝時代の最初の二人の天皇が光明天皇と後醍醐天皇であり、対局の天皇が北朝と南朝でいたと言うのは、面白い所だと感じています。
光明天皇の動画
光明天皇のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は戎光祥出版の「室町・戦国天皇列伝」をベースに作成しました。