名前 | 高師夏 |
読み方 | こうのもろなつ |
生没年 | 1339年ー1351年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:高師直 兄弟:師詮、渋川直頼の正室 |
年表 | 1351年 打出浜の戦い |
コメント | 若くして亡くなった悲劇の人 |
高師夏は高師直の嫡子です。
高師夏の母親は貴族出身だとされており、後継者として目されたのでしょう。
観応の擾乱で足利尊氏が京都に進撃した時は、備後を任されました。
打出浜の戦いの前日には河津氏明と共に、聖徳太子や吉野金剛蔵王権現らに殺害される不思議な夢を見ています。
打出浜の戦いで敗れた後は捕虜となり、後に高一族の大半が世を去った事を聞くと、世を去る覚悟を決めました。
西左衛門四郎が涙を流しながらも、高師夏を討ち最後を迎えています。
高師夏は13歳で命を落としたとも言われており、悲劇の人だったと言えるでしょう。
高師夏の出自
高師夏は太平記によると、高師夏は高師直の嫡子であり、二条前関白の妹だとされています。
高師直は二条前関白の妹に目を付けており、盗み出して身籠らせました。
亀田俊和氏によると、二条前関白の妹に該当する人物がいないとする見解を示しています。
ただし、二条前関白の妹は二条兼基の娘の事だったのではないかとする説があります。
高師夏は家柄もよく高貴な血が流れており、容姿端麗で性格の優しく足利尊氏にも気に入られていたと言います。
高師直も高師夏の将来を期待していたのでしょう。
備後への配置
高氏の中には高師秋の様に足利直義に味方する者も現れましたが、高師夏は高師直を支持しています。
観応の擾乱では足利尊氏と高師直が九州の足利直冬を討つために出陣しますが、足利直義が南朝に降伏し大和で挙兵しました。
直義派の桃井直常が京都を占拠すると、足利尊氏は京都に向かいますが、高師夏を備後に配置しています。
高師夏を備後に配置したのは、足利尊氏が京都で戦っている最中に後方を任せたという事なのでしょう。
石見国にいた高師泰が西進すると、高師夏も高師泰に合流する事になります。
不吉な夢
足利尊氏は足利直義との決戦である打出浜の戦いに臨む事になります。
打出浜の戦いの前日に高師夏は不思議な夢を見ます。
夢の中で高師直、師泰、師世、師夏が聖徳太子や蘇我馬子、小野妹子ら歴史の偉人などにより命を落としました。
高師夏は自らが聖徳太子らに殺害される夢をみたわけであり、これが本当なら不吉さは半端なものではなかった事でしょう。
さらに、同じ夢を高氏重臣・河津氏明までもが見たとされています。
高師夏の最後
打出浜の戦いで足利尊氏は敗れて、直義との間で講和が成立しました。
高師直や高師泰は殺害され、高一族の主要な人物は斬首されています。
しかし、高師夏は年が13歳であり、捕縛されただけで済んでいます。
高師夏は僧となり余生を過ごす様に説得されますが、高師直らが世を去った事を耳にしました。
髙一族の多くの者が亡くなった事を聞いた高師夏は、自分も殺害する様に強く望んでいます。
高師夏の死は室町幕府も望んではいなかったと感じますが、西左衛門四郎に処刑を命じました。
この時の西左衛門四郎は涙を流し、高師夏を討ち取ったと伝わっています。
高師夏は若くして世を去った悲劇の人となったわけです。