春秋戦国時代

公孫閼は主君から呪詛された

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宮下悠史

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名前公孫閼(こうそんあつ)
別名子都
登場春秋左氏伝
コメント戦場に私怨を持ち込んだ

公孫閼は春秋左氏伝に登場する鄭の臣下の一人です。

名前に公孫がつく事から、鄭の公族の一人だったのかも知れません。

鄭の荘公に仕えますが、紀元前712年の許への攻撃の際に、潁考叔と争いました。

戦いが始まると城壁を先頭で登る潁考叔に対し、公孫閼は弓矢で射殺しています。

戦いは鄭の勝利に終わりますが、鄭の荘公は公孫閼を呪詛した話があります。

公孫閼と潁考叔の争い

紀元前712年に鄭の荘公は、斉や魯と共に許を攻撃する事になりました。

春秋左氏伝によると、五月甲辰の日に鄭の祖廟で武器を分与したとあります。

ここで、公孫閼は潁考叔と車の奪い合いをしたとあります。

潁考叔は車を引く為の長い棒である轅を掴み逃亡し、公孫閼は潁考叔を大通りまで追いかけるも逃げられてしまったとあります。

公孫閼は潁考叔を恨みました。

戦場に私怨を持ち込む

紀元前712年の秋7月に、鄭の荘公斉の僖公と魯の隠公と共に許を攻撃しました。

許の城壁に真っ先に登ったのが潁考叔であり、手には蝥弧を握りしめていたわけです。

ここで公孫閼は潁考叔に狙いを定めて弓矢を放ちました。

公孫閼が放った矢は潁考叔に当たり、潁考叔は城壁から落ちて亡くなりました。

公孫閼は私怨を戦場に持ち込み、勇敢に戦う潁考叔を射殺してしまったと言えるでしょう。

許との戦いは瑕叔盈の奮戦もあり、鄭、斉、魯の連合軍が勝利しています。

鄭の荘公の呪詛

戦いが終わると、鄭の荘公は公孫閼を呪詛させた話があります。

潁考叔は鄭の荘公と武姜の仲を取り持った功績があり、鄭の荘公も思う所があり、公孫閼に呪いを掛けたのでしょう。

それと同時に、公孫閼は既に逃亡しており、鄭の荘公は罰する事も出来ず、呪いを掛けたのかも知れません。

春秋左氏伝には、鄭の荘公による公孫閼への呪詛に対する君子の評が掲載されており紹介します。

※春秋左氏伝より

鄭の荘公は政・刑を誤っている。

政とは民を治めるものであり、刑とは邪を正すものである。

徳政がない上に威刑もないので、公孫閼の様な邪が生じたのだ。

邪が生じてから呪詛を行っても、何の御利益もない。

春秋左氏伝の君主は、鄭の荘公の政治と刑罰を問題視したわけです。

尚、公孫閼がこの後にどうなったのかは、記録がなく分かっていません。

鄭の荘公の呪詛により亡くなってしまったのかも不明です。

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