
| 名前 | 許の荘公 |
| 姓・諱 | 姜茀、姜苴人 |
| 生没年 | 不明 |
| 在位 | 紀元前731年ー紀元前712年 |
| 国 | 許 |
| 一族 | 弟:桓公 |
| コメント | 斉、魯、鄭の連合軍に攻められ国は一旦滅亡した。 |
許の荘公は春秋時代の許の君主です。
許は紀元前712年に、斉、鄭、魯の三国に攻め込まれました。
春秋時代の国力で言えば斉は大国であり、鄭と魯は中規模の国であるのに対し、許は小国であり圧倒的に不利な状態に追い込まれる事になります。
当然ながら許の城は陥落し、許の荘公は衛に亡命しました。
許の荘公の時代に許は一時的に滅亡しますが、弟の許の桓公が国を再興する事になります。
斉・鄭・魯の攻撃を受ける
春秋左氏伝の魯の隠公の11年(紀元前712年)に、斉、魯、鄭が許を攻撃した話があります。
前年に斉や鄭は宋や衛と戦っており、後の展開を考えると許の荘公は反鄭派であり、弟の許叔(許の桓公)は親鄭派だったのではないでしょうか。
許の隣国は鄭だけですが、鄭と許では国力で許は劣っており、さらに、鄭に斉、魯が味方した事が、許の荘公の頭を悩ませた事でしょう。
三国の国力と許を比べれば、許の荘公は十分の一以下の戦力で、戦わなければならなかったのではないでしょうか。
許の荘公は当然ながら、籠城戦を選択しました。
鄭では城壁を勇敢に登る潁考叔が、私怨により公孫閼に射殺される一幕もありましたが、瑕叔盈が奮戦する事になります。
鄭の猛攻の前に、城は落城しました。
これにより許は一時的に滅亡する事になります。
許の荘公が衛に亡命
許の城が陥落した事で、許の荘公は衛に亡命しました。
許の荘公が衛に亡命する辺りは、衛と許は親しかったのでしょう。
斉の僖公は魯の隠公に許を対処させようとしましたが、魯の隠公が断った事で、鄭に許は与えられました。
鄭の荘公は許の荘公の弟である許叔(許の桓公)を奉じて、大夫の百里や公孫獲に許の地を任せています。
衛に出奔した許の荘公が、この後にどうなったのかは不明ですが、許の君主に返り咲いたとする記述は存在せず、国に帰る事も出来なかったのでしょう。
許国は紀元前697年に、許叔により再興される事になります。
| 先代:不明 | 荘公 | 次代:桓公 |