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南部政持は新田(にいだ)氏の祖となる

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宮下悠史

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名前南部政持
別名新田政持
時代南北朝時代
一族父:南部政長 母:新田氏の娘? 
兄弟:信政、信助 子:新田親光
コメント新田(にいだ)氏の祖となった人物

南部政持は新田(にいだ)氏の祖となった人物だとされています。

根城南部氏(八戸氏)の五代目当主である南部政長の子で、兄弟には南部信政や南部信助がいます。

南部政持は新田氏の祖となりますが、弟の南部信助は中館氏の祖となっています。

根城南部氏の家系に関しては、南部信政の母親が南部師行の娘になっているなどもあり、不明な点が多いと言えます。

尚、南部政持には不明な点が多く、どの様な最後を迎えたのかもよく分かっていません。

新田氏の祖となる

南部政持は南部政長の子であり南部信政や信助は兄弟となります。

南部信政が根城南部氏の当主となっており、南部政持は分家の新田(にいだ)氏を興しました。

江戸時代の編集された記述によると、南部信政と政持や信助は異母兄弟だったとされています。

南部政持の母親は三戸家の九代目の当主である南部祐政の娘だとされています。

しかし、南部政持が活動していた時代に、三戸家の活動自体がよく分からず、本当に南部祐政の娘が母親なのか不明な点も多いです。

実際には南部政持や信助の母親が、誰なのか分からないと言った所なのでしょう。

南部政持と政略結婚

新田家の本拠地は南部政持の子である新田親光の時代に、八戸新田を本領としました。

新田家は南部政持の時代には、比内郡に新田氏がいたと考えられています。

実際に延元三年(1338年)に新田政持(南部政持)が比内郡に拠点を持っていた事が書かれています。

尚、これが資料上で見る南部政持の最初のものとなります。

ここで南部政長が政治手腕を発揮し、比内郡にあった新田家から側室を貰い、この側室から生まれた子を比内新田氏の当主にしたのではないでしょうか。

最終的に比内新田氏は室町幕府に敗れ去り、八戸に逃れたのではないかとも考えられています。

今のは南北朝武将列伝にある滝尻侑貴氏の説ですが、断言はできない様です。

それでも、南部政長が政略結婚を行い息子の南部政持を新田氏に入れて、後継者にしてしまった可能性もあるでしょう。

※この記事は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成しました。

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