古代オリエント

農耕の始まりと発展

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宮下悠史

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名前農耕(のうこう)
時代新石器時代ー現代
コメント農耕の始まりが歴史を動かした

農耕は気候変動による影響により始まったとされています。

砂漠が拡大し人々は人類は食糧に困りますが、こうした時期に農業と出会う事になります。

メソポタミアの肥沃な三日月地帯では、麦が自生しており、天水農業も始まる様になりました。

農耕の始まりにより食料自給率が飛躍的に高まり、余剰食糧が生まれた事で専門職が誕生する事になります。

メソポタミアでは都市が出来るなどしており、農耕により文明が始まったとも言えそうです。

日本でも縄文時代が終わると弥生時代が始り、農業の時代となりました。

尚、農耕の始まりの動画も作成してあり、地図の最下部から視聴する事が出来る様になっています。

氷期の終焉と時代区分

農耕は、今から一万年前に氷期が終わった事が影響しているとされています。

旧石器時代から新石器時代に移行していく時期です。

これまでの人類は、狩猟などによってマンモスといった動物を倒し、その肉を食料として利用してきました。

氷期が終わると地球は温暖な気候になり、寒い地域に生息するマンモスなどは北方に移ったと言われます。

石器時代は250万年前に始まり、1万年前に中石器時代となっています。

つまり、石器時代の大半が旧石器時代ということになります。

世界史の区分については、旧石器時代と新石器時代に分ける見方もあれば、中石器時代を含める見方もあります。

紀元前250万年前から紀元前1万年前までを旧石器時代、紀元前1万年前から紀元前7千年を中石器時代、紀元前7千年以降を新石器時代とする場合が多いようです。

また、地球が氷期にあった時代を更新世と呼び、温暖化した時代を完新世と呼びます。

完新世は現代まで続いています。

環境変化と技術変化・農耕への移行

温暖な完新世に入ると、寒冷地に適したマンモスがいなくなっただけでなく、降水量の減少により密林が消えたり、木の実などの食料が減少したりしてしまいました。

温暖な気候は乾燥につながり、サハラ砂漠が出現し、アラビア砂漠などをはじめとする砂漠も大きくなっていきます。

また、砂漠の周りには草原が広がっていきました。

旧石器時代が終わったことは、人類にとって産業革命以上に重要な出来事だったのではないかと感じます。

この苦難の時代に人類は農耕、牧畜を開発し、滅亡を切り抜けてきました。

旧石器時代の打製石器から、石を研磨して仕上げる磨製石器へと技術が進み、これが定住や農耕への移行を促しました。

また、農耕が始まった事により、土器が誕生したと考えられています。

1万年前に起きた温暖化による石器の変化は、世界中で同じくらいの時期に起きていたとされます。

昔は「メソポタミアから全世界に広がっていった」という説がありましたが、現在は別々に発展していったという説が有力です。

ただし、この頃の家畜や農耕などは、知識が全くない状態から始まったため、かなりの苦労が伴ったことが想像できます。

気候が温暖な完新世に入った事で人類の生活は変わり、今までの様に狩猟で自然の流れに沿って生きるのではなく、人間が自然をコントロールし、作物や動物を支配する社会に変わって行きました。

牧畜は、農耕よりも少し後になって登場したようです。

それでも、農耕民と牧畜民(遊牧民)は接点を持ち交易を行っていた事が分かっています。

初期農耕

メソポタミアの肥沃な三日月地帯と呼ばれる場所で、人類最初の農耕が始まったという話があります。

この場所は麦の自生地帯であり、農耕の難易度は低かったと考えられています。

世界最古の農村と考えられているヨルダン川流域にあるイェリコなどは、湧水を使って農耕をしていたようです。

初期の農耕は湧水や雨水を使うことが多かったとされています。

イェリコから始まったとされている麦の栽培は、メソポタミア地方の北部に牧畜と共に広がって行ったと考えられています。

ここでも川の近くではなく、丘陵に広がって行きました。

農耕が始まった時代は川に堤防がなく、雨が降った場合にはすぐに氾濫が起きるため、平野部は水浸しになってしまいます。

そのため、平野部には農耕が広がりませんでした。

イェリコから始まった初期農耕は肥沃な三日月地帯の東部にあるジャルモにまで伝わります。

ジャルモは高温多湿地帯であり、豊富な雨量がありました。

イェリコが湧水を使った農耕を行っていたのに対して、ジャルモは雨水を利用した天水農耕が可能でした。

ジャルモ遺跡は有名ですが、村の人口は150人程度と、非常に小さな村落でした。

また、ジャルモからは小麦、大麦、豆類などが見つかっています。

この当時の農耕は肥料を使っていなかったとされています。

肥料を使わないと地力が低下してしまい、作物が取れなくなってしまうという問題があります。

また、同じ場所で農耕をし続けると、土に栄養が無くなり、作物が実らなくなってしまいます。

地力の低下を防ぐために、人類は数十年掛けて農耕する場所を移動することになります。

しかしながら、土地が復活した頃に、また戻って同じ場所で農耕をしたという話もあります。

ちなみに、肥料を全く使わず、地力が衰えると別の土地へ移る原始的な農耕の事を略奪農法と呼ぶそうです。

土壌から栄養分を奪い続けるため「略奪」という表現は適切だといえます。

この頃の農耕では、まいた種の収量がおよそ3倍になるといわれています。したがって、翌年以降のために収穫の3分の1程度は必ず取り置く必要があります。現在では、まいた量の50倍に達する場合もあるとされ、農耕技術の発達は目覚ましいものがあります。

他にも、「肥沃な三日月地帯で食物を作ると、収穫は撒いた量の10倍を超える」といった話もあります。

肥沃な三日月地帯は、当時の世界のGDPの大半を締めていたとも言われています。

社会変化と都市化

農耕が発展すると食料の受給が安定していきます。

川から水を引くことで農耕がさらに発展すると考えられ、やがて集落は大河に近い場所へと移っていったという説があります。

農耕の発展に伴い都市が形成され、さまざまな職業が生まれたと考えられます。

余剰食糧が生じたことで専門職が成立し、たとえば農耕が得意でない人は土器製作などに専念できるようになったといわれています。

さらに、人々は大河から水を引くなどして灌漑農耕を始めるようになりました。

灌漑農耕の初期の頃は、村々で協力して行っていたため貧富の差は少なかったとされています。

しかし、次第に民衆を指導するリーダーの様な人が必要となり、貧富の差も増して行きました。

シュメール人は楔形文字を持っており、この頃から文字で記録が残るようになります。

メソポタミアの南部に現れたシュメール人は、優れた天文知識があり、この時代にも関わらず天王星や冥王星、海王星の存在を知っていたという話もあります。

文字が出現した事により、人類は文字で歴史を残す事になり、先史時代は終了します。

メソポタミア以後の民族移動と国家形成

詳しいことは未だに解明されていないのですが、シュメール人がいた頃の民族配置は、エジプトにハム系の民族、アラビア半島にセム系の民族、メソポタミアの南部にはシュメール人となっていたようです。

ちなみに、ハム系の民族はノアの息子の一人であるハムの子孫とも呼ばれ、セム系の民族がノアの子であるセムの子孫とも言われています。

メソポタミアではセム系民族の大移動が始まり、各地で国家が成立するようになりました。たとえば、メソポタミア中部にアッカド帝国が興り、フェニキア人は地中海で盛んに交易を行うようになりました。

また、当初は脆弱だったアッシリアが勢力を拡大し、エジプトとメソポタミアを含む広域での支配を目指す動きも見られます(オリエント統一)。

セム語系のアムル人がバビロン第一王朝を築き、全盛期にはハンムラビ法典が制定されるといった出来事もありました。

セム系の民族が肥沃な三日月地帯に乗り込んで、国々の攻防が始まったとされます。

農耕の話からはやや逸れてしまいましたが、歴史の記録が始まった背景には、農耕の成立とその発展が大きく関わっていると考えられています。

おわりに

農耕の始まりは気候変動と技術革新が重なった結果であり、人類史における革命的な転換点であったと言えます。

生産様式の変化は定住・専門化・都市化・文字の発生へと連鎖し、現代社会の基礎を形作る大きな一歩となりました。

農耕の始まりの動画

農業の始まりのゆっくり解説動画となっています。

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