大内義隆という人物を評価するのは、非常に難しい所があります。
治世の前半で言えば文武両道の名君に感じますし、治世の後半になると政治を疎かにした暗君に見えるからです。
ちなみに、大内義隆は祖父は、応仁の乱で活躍した大内政弘です。
山名宗全や畠山義就ら西軍は、細川勝元ら東軍に押され気味で苦戦していたのですが、大内政弘が大軍を率いて上洛すると、形勢を立て直しています。
この様に祖父の代から既に、大内家は強国となっていました。
尚、大内家をさらに発展させて、滅亡に導いたのが大内義隆です。
大内義隆の一代で全盛期と滅亡への道を味わった事になります・・。
大内義隆は文武両道の名将だった
大内義隆と言うと、戦国時代を好きな方ですと、陶晴賢に謀反を起こされて主家を乗っ取られた人という意味合いが強いでしょう。
教養はあったけど、家臣団を統率できずに滅ぼしたイメージが強いと思います。
しかし、治世の前半を見ると、大内義隆は明らかに文武両道の名君です。
ちなみに、大内義隆は22歳で家督を継いでいます。
父親である大内義興の死により家督を継ぎました。
運がいい事に先祖の頑張りにより、最初から周防、長門、岩見、安芸、豊前、筑前などに領地を持っていました。
即位した時から、6カ国の領地があると言うのは、他の戦国大名を大きくリードしている事になります。
西の京を作り出す
大内義隆の功績の一つは、西の京と呼ばれる程、本拠地である山口を繁栄させた事です。
京都は応仁の乱などの戦乱により、荒れてしまったので文化人たちは困っていました。
それに目を付けた、大内義隆は文化人を保護し和歌や茶道、芸能など様々な文化が山口で花開いたわけです。
さらに、海外においても明や朝鮮との勘合貿易を活発に行い莫大なる富を手に入れる事になります。
圧倒的な経済力を背景にして、後奈良天皇の即位式には、銭二千貫(現在の価値で20億円相当)も寄進しています。
この事から、大内義隆の時代に圧倒的な経済力を手に入れた事が分かるはずです。
尚、毛利家長男である毛利隆元は、大内家に人質に行った時に、政治のやり方や文化などを大いに吸収したとされています。
大内義隆に影響された部分は大きかったのでしょう。
大内家の最大領域を築く
大内義隆の成功は、内政だけではありません。
軍事においても成功を収めています。
尚、大内義隆は戦下手というイメージがあるようです。
軍事の成功と言っても、「どうせ家臣が指揮を執ったんだろう」と思う人もいるかも知れません。
しかし、実際には大内義隆が自らの采配で勝利を収めたりしているわけです。
1534年には、九州探題である渋川義長を破り滅亡されています。
さらに、1536年には北九州の名門である少弐家を滅ぼしてもいます。
この時は、少弐家の重臣であり文武両道の名将である、龍造寺家兼を寝返らせる事もしているわけです。
優秀な家臣団の助けもありますが、調略に関しても上手くやっています。
これにより北九州の大半を大内家の領土としました。
1540年に、尼子晴久が毛利家を攻めると、毛利元就(この時期は大内義隆に服属)の援軍に行っています。
安芸の吉田郡山城の戦いでは、宿敵尼子家に勝利したわけです。
さらに、勝った勢いにのり、安芸の尼子勢力である武田家と友田氏を滅ぼし、安芸を完全に支配下に治める事に成功しました。
ここにおいて、大内義隆は北九州や中国地方の北部を支配下におき、大内家の全盛期を迎えるわけです。
これらを考えると、大内義隆は名将と呼んでも差し支えないでしょう。
ただし、名将および名君はここまでですが・・・。
第一次月山富田城の戦いで敗北
1541年に尼子家を強大な勢力にした、名将尼子経久が亡くなります。
これを好機と見た、大内義隆は尼子家に攻め込んだわけです。
これが1542年に起きた「第一次月山富田城の戦い」です。
出雲(現在の島根県)で起きた戦いとなります。
厳島神社で戦勝祈願を行い、4万5千の大軍を率いて、尼子家の本拠地である月山富田城を囲んだわけです。
兵力にして尼子家の3倍となります。
しかし、尼子家は巧みに守り戦は長期戦となっていきます。
遠征軍は、兵糧の確保が必須になりますが、糧道を尼子軍はゲリラ戦法で断ったり後方を脅かすようになりました。
ゲリラ戦法に苦しめられた大内義隆は次第に劣勢になっていきます。
この状況を見た出雲の国人衆たちは、大内義隆を見捨てて尼子家に寝返ってしまいました。
これにより、第一次月山富田城の戦いは敗戦が決定的となり、大内義隆は撤退を始めます。
大内晴持の死で転換期に・・。
第一次月山富田城の戦いで破れて撤退する最中に不幸が起きます。
大内義隆は無事に山口に撤退する事が出来ましたが、後継者の大内晴持が死亡してしまった事です。
大内晴持は、養嗣子ではありましたが、美しい容貌でさらに文武に秀でていたとされています。
大内義隆からは大いに期待されていたわけです。
大内晴持の死因ですが、撤退最中に乗った船が転覆してしまい、溺死してしまいました。
大内義隆の落胆は酷く、これ以降は領地拡大路線を止めてしまったわけです。
大内義隆自身もやる気を失ってしまい、鬱状態になってしまいました。
ちなみに、機内の大半を制した三好長慶なども、鬱になってしまったと言われています。
期待していた後継者が亡くなる事で、鬱になってしまう人は多いのでしょう。
ダメな公家になってしまう・・・。
大内義隆は、この敗戦をきっかけに領土拡大路線から転換しています。
本人は、完全にやる気を無くしてしまい、和歌や茶道などに熱中し始めます。
今川氏真のような大名で無くなってしまった人が、和歌や茶道に熱中すると、教養の高い人物として注目が集まるだけで済みます。
しかし、大名が和歌や茶道に熱中してしまうと、莫大な予算が掛かるわけです。
庭園作ったり寺院を作ってみたりと、芸術にハマってしまうと莫大な予算が必要になります。
大内義隆の趣味に関する予算が大内家の財政を圧迫したとも言われています。
そのため途方もない費用だったのでしょう。
大内義隆は、趣味に生きると言うよりは、廃人になっていたのではないかとすら思えてきます。
さらには、衆道(男色)や女色にもかなり、のめり込んでいたようですw
文治政治が始まる
大内義隆自身は、政治のやる気を無くしてしまい、側近である相良武任に一任しています。
ここにおいて大内家では、文治政治が始まるわけです。
文治政治は文官が優遇される為に、武官が疎まれてしまう問題があります。
中国の宋などは、文治政治を行った為に、軍隊が非常に弱く、北方の異民族の侵攻を抑える事が出来ませんでした。
江戸時代の様な太平の世で、文治政治を行うのは、仕方がないかも知れませんが、大内義隆が生きたのは戦国時代です
ここで文治政治に偏り過ぎた事をするのは、危険極まりないわけです。
大内義隆にしてみれば、武官が実権を握り暴走して、戦争を引き起こす位であれば文官が実権を握っていた方がよいと考えたのかも知れません。
さらに、武官は戦が無いと手柄が立てる事が出来ないため、武官をないがしろにするような政策で、武断派の不満が溜まっていきます。
正室の貞子にも見捨てられる
大内義隆は、放蕩三昧でやる気を無くしてしまったわけですが、これをみた正室の貞子にも見捨てられてしまいます。
貞子は、公家である万里小路家の出身で実家がある京都に帰ってしまったわけです。
しかし、これには様々な説があります。
大内義隆が衆道にのめり込みすぎて、見捨てられたとする説があるのです。
この時代は、戦場に女性を連れて行くわけには行かずに、美男子を連れて戦場に行き女性の代わりにするのが普通でした。
しかし、衆道にのめり込みすぎるのは、女性から見れば嫌だったのでしょう。
その他の説として、貞子に仕える侍女である「おさい」に入れ込みすぎてしまったからだとする説もあります。
貞子にとってみれば、自分よりも侍女を愛する大内義隆が許せなかったのかも知れません。
尚、貞子が京都に去ってしまうと「おさい」が正室になっています。
そのため貞子の侍女である「おさい」に入れ込み過ぎた説はかなり信憑性があるはずです。
ただし、衆道と「おさい」の両方に入れ込み過ぎた為に、愛想を尽かされたとする説もあります。
これが一番信憑性がありそうな気が、個人的にはしています。
大内義隆にしてみれば、貞子がBLでなかった事にガッカリして、BLに理解がある「おさい」を可愛がったのもあるかも知れませんw
真相は、大内義隆に聞いてみないと分からないでしょう。
ザビエルの布教を許す
大内義隆ですが、フランシスコ・ザビエルが布教を許してもらう為に、謁見を願い出た記録が残っています。
しかし、衆道はキリスト教では禁止されているため、フランシスコ・ザビエルは大内義隆を批判していたそうです。
この事もあり、最初はキリスト教の布教は許されませんでした。
しかし、フランシスコ・ザビエルは、望遠鏡、鏡、メガネ、海外の文献など、珍品を大内義隆に献上したそうです。
趣味に生きている大内義隆にとってみれば、かなり刺激されたようで、キリスト教の布教を許す事にしました。
武断派の家臣にしてみれば、物品で心を動かされる大内義隆を見て軟弱な人になったと感じた事でしょう。
大内義隆は、武将ではなく文人になっているわけです。
これが太平の世であれば「バカ殿」で済むかも知れませんが、この時代では文弱になるのは許される事ではなかったのでしょう。
衆道相手に謀反を起こされる
ついに、大内義隆に向けて大規模は反乱が起きます。
文治派の相良武任と、武断派の陶晴賢(隆房)の対立が原因が大きかったようです。
後に、大寧寺の変と呼ばれるわけですが、大内義隆は大半の家臣に見棄てれらていたとされています。
謀反を起こした陶晴賢は、かつては大内義隆の衆道相手でした。
陶晴賢は美男子であり大内義隆は非常に気に入っていたそうです。
陶晴賢がまだ衆道相手だった頃に、大内義隆は5時間かけて会いに行き、陶晴賢が眠っている事を知ると、和歌を残して去ったとする逸話もあります。
この事から、大内義隆は陶晴賢の事を大そう気に入っていました。
ただし、陶晴賢が大内義隆の事をどのように思っていたのかは定かではありません。
案外、他の男にうつつを抜かす大内義隆を見て「俺以外の奴と仲良くしやがって!」と嫉妬の念が強く謀反を起こしたのかも知れませんw
それか、衆道相手の頃から「あのおやじ(大内義隆)は気持ちが悪い」と思って、殺意を持っていた可能性もあるでしょうw
理由は分かりませんが、大内義隆を見限っていた事は確かなようです。
陶晴賢は武断派の筆頭なので、文治派の相良武任も同時に排除しようと考えたはずです。
大寧寺の変が勃発する
陶晴賢が挙兵すると、大内義隆も対抗して兵を挙げます。
しかし、大内義隆は家臣の大半に見捨てられていた為、兵士がほとんど集まりませんでした。
周防を追われてしまい、長門に敗走します。
ここでも反撃することが出来ずに、結局は津和野(島根県)の三本松城主である吉見正頼(義理の兄)を頼って逃げようとします。
仙崎から船で逃げようとしたわけですが、天候が悪く暴風雨が発生してしまい船が前に進む事が出来ません。
暴風雨で右往左往している時に、大内義隆はかつての後継者である大内晴持の事を思い出したようです。
次の言葉を言ったと記録があります。
虚しく暴風雨で海底に沈む溺死するよりも、大寧寺に行き戦って死のう
船を長門に戻す様に命令をすると、山奥にある大寧寺に籠り抗戦の構えを見せます。
もちろん、陶晴賢らは攻めてくるのですが、放蕩三昧を続けていた大内義隆の味方は少なく死期を悟ります。
この時に、辞世の句を読み自害したようです。
介錯を務めたのは、家臣団の中で唯一味方として駆けつけてくれた冷泉隆豊です。
尚、介錯を務めた冷泉隆豊は、その後、陶軍の中に単身で突撃を仕掛けて、大暴れした後に討死したとされています。
放蕩三昧の大内義隆でも、冷泉隆豊のような家臣がいた事は救いなのではないでしょうか?
ちなみに、冷泉隆豊は文武両道と言われた人物で、大内家中でも高い評価を得ていた人物です。
大内義隆の長男である大内義尊はわずか7歳でしたが、家臣に守られて逃亡しています。
しかし、結局は陶晴賢に捕縛されてしまい、殺害されました。
ここにおいて、大内義隆の直系の子孫は絶えてしまったわけです。
大内家のその後。
大寧寺の変の後の大内家ですが、陶晴賢が実権を握ります。
陶晴賢もいきなり当主になるのは、反感を買うと思ったのか、大内義隆の甥である大内晴英(義長)を当主に据えます。
しかし、実権に関しては陶晴賢が握っていて、大内義長は傀儡に過ぎませんでした。
その後、毛利元就は、長男である毛利隆元の進言もあり、大内家と手を切り独立をしています。
さらに、安芸領内の城を落とし始めました。
この動きに対して、陶晴賢は毛利家を潰しにかかるわけですが、1555年の厳島の戦いにおいて破れて討死しています。
これを境に、大内家の弱体化が加速して行き2年後の1557年には、毛利元就に攻められています。
この時に、大内義長は奮戦しますが、自城である高嶺城を守り抜く事が出来ずに、家臣である内藤隆世の長門且山城に逃げています。
しかし、ここも毛利家の武将である福原貞俊に包囲されて自害しています。
ここにおいて、大名家としての大内家は滅亡しました。
大内義隆の死から僅か6年しか経っていません。
後に、大友宗麟の後押しもありお家再興の為に「大内輝弘の乱」が起こりますが、結局は毛利方の市川経好の妻や吉川元春らにより鎮圧されています。
これより先は、中国地方では毛利家が勢力を伸ばし続けて、尼子氏も滅ぼし中国の雄となっています。
全盛期と滅亡
大内義隆を見ていると、一代で全盛期と滅亡を味わった人物のようにも感じます。
大内義隆の代で領土は最高潮に達しましたし、西の京と呼ばれるくらい山口は発展しました。
しかし、治世の後半はやる気を無くしてしまい家臣にも見捨てられています。
一代での盛者必衰を見てしまうと、中国の南北朝時代の梁の武帝(蕭衍)を思い出します。
梁の武帝は、南北朝時代最高の名君と呼ばれながらも、後半は仏教に傾倒しすぎて、国を傾けていますし、最後は侯景の乱で幽閉され殺害されています。
大内義隆のパターンと似ていると思いました。
しかし、一代のうちで全盛期と凋落を見てしまうと、儚さを凄く感じます。
尚、KOEIのゲームである信長の野望ですと、大内義隆の能力は高い時と低い時がありますw
戦国時代のゲームは人間の能力値が変えられないなどの問題が発生する場合もあるのです。
そのため、大内義隆の初期では高い能力値でおかしくありませんが、晩年は低い能力値になるのが正しいのでしょうw
こういう人物は、能力値の設定が難しいと思いました。
能力値が年々変化していくとか、イベントが起きると能力値の変化が起こるなどがあれば面白いと思いました。
様々な武将がいるわけで、データ的に可能かは分かりませんが・・・。
後継者が死ぬと人が変わる?
後継者が死んでしまった為に、名君だった人が暗君になってしまう例は歴史上でもかなりあります。
後継者が死亡により、暗君になった例は大内義隆だけではないのです。
四国統一を成し遂げた長曾我部元親も、戸次川の戦いで嫡男である長宗我部信親を失っています。
この戦いは豊臣秀吉の軍監である仙谷秀久が、無謀な突撃を敢行したのが原因とされていますが、島津家久に長宗我部信親を討たれた事で人が変わったように暗君になったともされています。
後継者問題で4男である長宗我部盛親を君主にしましたが、兄を殺害するなども問題となり関ヶ原の戦いの後には改易されています。
長宗我部元親が暗君になった事が、長宗我部家の改易に繋がったと指摘する専門家もいるのです。
三国志の世界でも、孫権の太子であった孫登が死亡した事で、孫権も耄碌していったともされています。
それを考えると、人の死というのは大きく人間を変えてしまうのかも知れません。
悲しみや怒りなどの負の感情に対して、乗り越えられるのが真の名君と言えるのかなとも考えてしまいました。
大内晴持の死後も、しっかりと政務を執っていれば出雲の尼子義久を破り、大内義隆が中国、九州の覇者になっていたのかも知れません。
ただし、いいところまで行ったところで、陶晴賢に謀反を起こされて死亡した気もしますがw
尚、愛しすぎてしまったりする事で、現在ではストーカーになってしまう人もいるわけですw
それを考えると、極端に愛情を傾けたりする事も危険なのかなと感じました。
バランスが大事という事なのでしょう。
尚、大内義隆は、今川氏真と細川政元を合わせて戦国三大愚人とも呼ばれているそうです。
戦国三大愚人は江戸時代の軍記物に書かれている話となります。