応璩の字は休璉であり、応珣の子で兄に応瑒にがいた事が分かっています。
応璩に関しては、正史三国志の王粲伝の注釈・文章叙録や劉馥伝、朱建平伝などに名前が登場する人物です。
応璩は文章により名を挙げた事になっていますが、一番有名な逸話は朱建平に最後を予言された事でしょう。
今回は名門汝南応氏の応璩を解説します。
尚、応璩の子に応貞がいますが、応貞もまた文章により名を挙げたと記録されています。
劉靖への手紙
正史三国志の劉馥伝に劉馥の子・劉靖に応璩が手紙を送った話があります。
この時の応璩は散騎常侍であり、河南尹の劉靖とは同じ名士であり、親交もあったのでしょう。
応璩は劉靖のやり方に関し、次の様に手紙で評価しました。
※正史三国志 劉馥伝より
貴方(劉靖)は中央に入れば納言となり、外にいれば河南尹に就かれました。
人民を豊かにするには、長い年月が必要だとも聞いております。
しかし、貴方は垣根を高くし盗っ人を取り締まり、五種類の穀物を作らせ、治水を行い水害対策をしています。
農機具を揃え民衆に行き渡らせ、農作業の時期を外さない様に工夫をしておられます。
期限を明確にした割符をしっかりと管理し、無駄な官吏を無くすように努力なされました。
独り者の男女や老人、子供には倉庫からの施しを与えています。
さらに、人目につかいない犯罪も摘発し、法律を守り妥協する事もありません。
役人たちは天子様の命令を受け持ち、百里四方の地域まで行き届いており、地方官は頭を下げ敬意を持ち、仕事に励んでいます。
古の趙広、張敞や三人の王氏(王尊、王章、王駿)であっても、比較にならない程の政治だと感じます。
応璩は手紙の中で、劉靖の政治を絶賛したわけです。
応璩は劉靖の厳しくも温情のある政治を賞賛したのでしょう。
応璩の人の美点を称揚できるのは、応璩の優れた能力の一つだと言えます。
因みに、傅子によれば、河南尹となった司馬芝は大まかで、劉靖は細かく、李勝は恒常的な規則を壊す事で名声を得たとなります。
さらに、傅嘏が司馬芝、劉靖、李勝の欠点を上手く取り繕ったような書き方をしています。
それでも、応璩が評価した劉靖の政治は、かなり優れており人民を富ませたのでしょう。
曹爽を批判
正史三国志の王粲伝の注釈・文章叙録に応璩は文章を作るのが巧みだったとあります。
中でも、応璩は「書」と「記」が得意だったと記録されています。
応璩は曹丕や曹叡の時代は、散騎常侍の位になり、曹芳の時代になると、侍中・大将軍長史となります。
曹叡が亡くなった後の魏では、曹氏一門の曹爽と名士の司馬懿で権力を争う時代に突入しました。
文章叙録によれば、曹爽は政権を握ると法制度に違反する事が多かったとされています。
応璩は詩を作って曹爽を諷刺しました。
応璩は名士であり、司馬懿に与しようとした可能性もありますが、劉靖の様な細かい政治を評価した話もあり、曹爽のやり方が気に食わなかった可能性もあるとも考えられるはずです。
応璩の作った詩は、「言辞はいささか迎合している趣はあるが、多くは時代の欲求に適合しており、皆それを伝えている」とあります。
応璩の最後と朱建平の予言
朱建平伝に応璩の最後に関する逸話が掲載されています
ある時、曹丕、夏侯威、応璩、曹彪は朱健平に寿命を占って貰った話があります。
この時に朱建平は応璩に対し、次の様に述べています。
※正史三国志 朱建平伝より
あなたは62歳の時に侍中に就きますが、その時に災難があります。
それより、1年前に貴方だけが見える1匹の白い犬がいます。
この白犬は他の人には見えません。
後に応璩は61歳の時に、侍中に任命されます。
応璩は任務で宮中に宿泊しており、白い犬を見かける事になります。
この犬は応璩だけが見えて、他の者には見えませんでした。
この出来事があってから、応璩はしばしば客を集めて、何度も地方に旅行する様になったと言います。
さらに、酒を飲み人生を楽しんだわけです。
こうした中で応璩は63歳で没したと記録されています。
朱建平は62歳で亡くなると言いましたが、侍中になった年と亡くなった年が一年ずつズレた事になります。
応璩は白い犬を見た時に、死期を悟りやり残した事が無い様に、人生を最後まで楽しむ事にしたのでしょう。
応璩の最後に関しては、応璩の性格がよく出ていると感じました。
尚、正史三国志の王粲伝の注釈・文章叙録によれば、応璩は嘉平四年(西暦252年)に亡くなったとあり、63歳で亡くなった事を考えると、応璩が生まれたのは西暦190年になるはずです。