佐竹義治は常陸佐竹氏の第十四代の当主となります。
上杉氏から出戻りした佐竹実定により、父の佐竹義頼と共に太田城を追われました。
佐竹実定が亡くなると、佐竹義実を追い払い太田城に戻る事になります。
佐竹義治が当主となりますが、この時代は様々な勢力に所領を狙われるなど苦しい時代でした。
佐竹義治は太田城を守り切りますが、佐竹の乱を終わらせる事は出来ませんでした。
五郎六郎合戦
佐竹義治は最初は太田城にいましたが、佐竹実定により太田城は奪われました。
これが五郎六郎合戦の始まりです。
佐竹義治は後に父親の佐竹義頼と共に孫根城に入りました。
後に大門城に移る事になります。
大門城は山入城を国見山から見下ろせる場所であり、山入氏にも睨みを利かせる様になります。
この頃には佐竹実定も亡くなっており、佐竹義実が後継者になっていましたが、力を失っていました。
佐竹義頼・義治親子は隠居していた佐竹義人とも和解し、太田城に帰還する事が出来たわけです。
後に佐竹義治は佐竹義実を暗殺しました。
久米城の戦い
太田城に戻ると佐竹義頼は引退し、家督を佐竹義治に譲りました。
文明十年(1478年)に山入義継(義知)が久米義武の久米城を攻撃しています。
久米義武は佐竹義治の弟となります。
久米城の戦いでは那須資持が山入義継に味方しており、古河公方の感状も発給されており、合戦の規模としては大きかったと考えられています。
この戦いで久米義武が戦死するも、佐竹義治は逆襲に転じ戦いに勝利しました。
戦いが終わると久米城には弟の佐竹義信が入る事になります。
佐竹義信が久米城に入ったのが、佐竹北家の始まりです。
佐竹義治と岩城常隆
文明十七年(1485年)に南奥浜通りの岩城常隆が常陸に侵攻してきました。
岩城軍は常陸の海岸沿いを南下し、村松にまで到達しています。
ここで岩城軍は佐竹氏の庇護化にあった村松虚空蔵堂を焼き討ちにしました。
岩城氏の南下の背景には、太平洋海運の利権を巡る問題があったとされています。
これにより佐竹氏と岩城氏は敵対するかに思われましたが、佐竹義治の後継者の佐竹義舜の代になると、岩城親隆の娘を佐竹義舜が妻として迎え入れ両者は婚姻関係を結びました。
佐竹義治の最後
佐竹義治は人生の終盤になっても、苦労していた事が分かっています。
佐竹氏宗家の家内でも戦乱で所領を失った被官を江戸通雅が抱え込み、さらに宿老の岩神小野崎通綱と誼を通じるなどしていました。
佐竹義治の後継者は佐竹義舜と決まっていましたが、混乱は続き佐竹氏の所領は古河公方を始め多くの者達に狙われていたわけです。
石神小野崎氏が義治の身代わりとして討死する計略を立て、敵が油断した所を逆襲し、大破した話も残っています。
こうした中で佐竹義治は延徳二年(1490年)に、最後を迎えました。
佐竹義治が亡くなると佐竹義舜が後継者となりますが、佐竹宗家打倒の好機とみた山入藤義が常陸太田城を攻撃しています。
当主になった佐竹義舜は、城を出て孫根尻に入る事になります。
佐竹義治の代になっても、佐竹の乱は終わらなかったわけです。