室町時代

佐竹義舜は佐竹宗家の権力強化に尽力した

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宮下悠史

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名前佐竹義舜(さたけよしきよ)
生没年1470年ー1517年
時代南北朝時代
一族父:佐竹義治 配偶者:岩城常隆の娘 兄弟:義信、義政など
子:義篤、宇留野義元、義里など
コメント佐竹の乱を終わらせた

佐竹義舜は佐竹氏の十四代目の当主です。

佐竹義治が亡くなり当主となりますが、直ぐに山入義藤により太田城を追われる事になります。

佐竹義舜は後に太田城を奪還し、山入氏を滅ぼしました。

これにより佐竹氏は100年にも及ぶ、佐竹の乱を終わらせています。

その後は足利政氏に味方し、下野への遠征を行いますが、上手くは行きませんでした。

佐竹義舜が亡くなると子の佐竹義篤が後継者となり、弟の佐竹義信と佐竹政義が補佐する事になります。

太田城を追われる

延徳二年(1490年)四月に父親の佐竹義治が亡くなり、佐竹義舜が後継者となりました。

この時期は佐竹氏の内部では混乱しており、山入氏も虎視眈々と佐竹宗家を狙っていたわけです。

佐竹義治の死を好機と考えた山入義藤は、子の山入氏義と共に、太田城を襲いました。

山入氏の急襲に佐竹義舜は対処する事が出来ず、太田城を追われ孫根城に入る事になります。

祖父と父親の佐竹義頼義治は、佐竹実定により太田城を追われ孫根城に入りましたが、佐竹義舜も同様に城を追われ孫根城に入る事になったわけです。

孫根城には祖父や父を援けた大山義長の子である大山義成がいましたが、同じように佐竹義舜を助けました。

佐竹宗家と山入氏の和睦

佐竹義舜は太田城の奪還を狙っていましたが、今度は山入氏の山入義藤が亡くなりました。

後継者には山入氏義がなっています。

これを好機と考えたのが、佐竹義舜であり、那須氏や茂木氏に山入氏の長倉氏領を与える約束をし、味方につけました。

さらに、佐竹義舜の岩城氏には山入方の山尾小野崎氏領を与える約束をしています。

こうした中で岩城常隆が仲介し和睦を進め、山入氏義の太田城在城を認める形で纏まりました。

岩城常隆が提案した紛争解決の方法を「近所の儀」と呼ばれています。

佐竹宗家と山入氏の和睦成立の背景には、古河公方の存在もあったとされています。

太田城の返還がなされなかった事で、佐竹義舜には不満が残る結果に見えるかも知れません。

しかし、佐竹義舜は根気強く交渉を行い佐竹義舜が岩崎常隆の娘を妻として迎え、佐竹氏宿老の江戸通雅の娘が岩城重隆に嫁ぎました。

佐竹義舜は宿老の江戸氏や岩城氏と婚姻関係を結ぶ事で関係を強化し、山入氏は孤立に向かう事になります。

今までの経緯を見ると、佐竹義舜が外交巧者に思えるかも知れませんが、実際には佐竹宗家の実力が低下し、様々な人々の力を借りねば、太田城を取り戻せない状態だったとも言えるでしょう。

それと同時に江戸氏や小野崎氏は佐竹氏の領地を多く侵害しており、その数は太田を中心に三十二カ所にも及んだ事が分かっています。

佐竹の乱の終焉

山入氏義は勢力挽回の為に攻勢に出て、佐竹義舜がいる孫根城を攻撃しました。

佐竹義舜は金砂山に落ち延びますが、山入氏義は自害寸前まで追い込んだとも伝わっています。

しかし、実際には追い詰められていたのは、山入氏義の方であり、山入氏義の最後の反撃の地が金砂山だったとも考えられています。

金砂山の滑川氏が佐竹義舜に味方した事で、佐竹宗家の軍が圧倒的に優勢になったとされています。

佐竹義舜は苦戦はしながらも戦い抜き、岩城氏の援軍も到来し、南下して大門城に入りました。

大門城に佐竹義舜が入った事で山入城と太田城の連携を断つ事になります。

永正元年(1504年)に佐竹義舜は太田城を陥落させました。

佐竹義舜は太田城を奪還しましたが、奪還までに10年以上の歳月を擁しています。

山入氏義は山入城に入りますが、佐竹義舜は一気に山入城まで攻め寄せたわけです。

永正元年(1504年)十二月末に山入氏は滅亡しました。

山入氏の山入氏義と子の義盛は、茂木氏により最後を迎えています。

これにより数代に渡って続けられた佐竹の乱は終焉しました。

佐竹義舜の佐竹の乱を終わらせた功績は極めて大きいと言えるでしょう。

佐竹宗家の権力強化

佐竹義舜は常陸太田城を奪還して山入城を滅亡させますが、旧山入氏の所領を巡っての問題が発生しています。

この時の佐竹氏は関東八屋形の格式を利用し、一族や国衆に対して支配下に置いて行く事になります。

佐竹氏は支配体制を強化しますが、江戸氏や小野崎氏も従属しました。

佐竹氏当主を中心とする家臣団を形成し、権力強化を行っています。

佐竹氏と江戸氏

江戸氏などは水戸地方や吉田郡南部から鹿島郡にかけて勢力を伸ばしており、佐竹宗家を脅かす存在でもありました。

永正七年(1510年)に岩城常隆の働き掛けもあり、江戸通雅と江戸通泰の間で盟約が結ばれています。

江戸氏は佐竹氏と「一家同位」となり、佐竹一族と同等の地位を与えられました。

さらに、水戸城も中心に江戸領の支配権も認められる事になります。

佐竹義舜としては、家臣でありながら強大な勢力を持つ江戸氏に、かなりの譲歩を行うと同時に安全保障の為の策でもあったのでしょう。

古河公方の争い

古河公方の方では足利政氏と足利高基の間で内紛が勃発しました。

この時に、佐竹義舜は岩崎氏と共に足利政氏に味方しています。

茂木持知も足利政氏に味方しました。

佐竹義舜は岩崎氏と共に、足利高基に味方した上那須氏や宇都宮氏を攻撃しました。

宇都宮成綱などは、足利高基を支持しています。

佐竹義舜は常陸北部の山入氏を滅ぼした事で、下野那須方面に進出する余裕が出来ていました。

佐竹義舜も岩城由隆と共に下野に侵入し、縄釣台で宇都宮忠綱との合戦で破れるなどしています。

この時に佐竹義舜は宇都宮氏の軍の追撃をうけ、月居城に籠城しますが、宇都宮忠綱が撤退した事で助かっています。

佐竹氏では下野にまで出兵していましたが、足利高基の勝利が決定づけられていくと、下野への出兵は終わりを迎える事となります。

これらの一連の戦いの中で、佐竹義舜は結城政朝とも刃を交えました。

佐竹義舜の最後と佐竹三家体制

永正十四年(1517年)に、佐竹義舜は世を去りました。

子の佐竹義篤が後継者となりますが、この時に僅か11歳でした。

佐竹義篤を支えたのが、佐竹義舜の弟である佐竹義信と佐竹政義です。

佐竹義信と佐竹政義は北家と南家を起こしており、後には佐竹三家体制となります。

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