室町時代

斯波直持は奥州管領大崎氏の二代目

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宮下悠史

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名前斯波直持(しばただもち)
別名大崎直持、大興寺殿、
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:斯波家兼 兄弟:斯波兼頼 子:大崎詮持
コメント奥州管領大崎氏の二代目

斯波直持は南北朝時代に奥州管領として活躍した人物です。

近畿にいる時は、後光厳天皇を守護したりしています。

後に父親の斯波家兼と共に奥州に下向しました。

父の死後は奥州管領としての職務に励む事になります。

奥州管領の大崎氏の二代目であり、父親の地盤を固めたと言えるでしょう。

後光厳天皇を守護

斯波直持は最初は治部大輔となった事が本郷文書や塩竈神社文書にあり、これが初見となります。

斯波直持の「直」は足利直義からの偏諱なのでしょう。

1352年頃は観応の擾乱は終わりましたが、南朝の京都侵攻が盛んな時期でもありました。

こうした中で後光厳天皇足利義詮と共に京都を出る事も度々ありましたが、斯波直持は若狭勢を率いて後光厳天皇を守護しています。

奥州管領に就任

1354年に父親の斯波家兼が奥州探題になると、斯波直持も奥州に下向しました。

既に奥州探題として吉良満家が存在しており、奥州探題二人制が室町幕府で採用されたわけです。

斯波直持は父親の斯波家兼の奥州経営を補佐しました。

1356年に斯波家兼が亡くなると、斯波直持が奥州管領に就任しています。

留守氏の所領

父親の代から留守氏の所領が八幡氏に押領されている事が問題になっていました。

留守氏の問題が解決しておらず、斯波直持は大掾下総守と氏家彦十郎を使者として、八幡氏の押領を止めさせようとしています。

しかし、留守氏は命令に従わず押領を止めておらず、康安元年(1361年)に泉田左衛門入道と氏家伊賀守を派遣し、八幡氏に所領の明け渡しを求めました。

こうした努力もあり、足利尊氏の下文および、斯波直持の施行状により貞治三年(1364年)11月に留守氏に所領が戻って来たわけです。

斯波直持の努力もあり、斯波氏(大崎氏)と留守氏は深い関係で結ばれる事になります。

奥州管領としての職務

斯波直持は康安二年(1362年)に相馬胤頼を東海道検断職に任命し、宮城郡国分寺郷半分を宛て行いました。

1363年には左京大夫となっています。

左京大夫は大崎氏の代々の官途になって行きました。

1364年に白河結城氏の結城朝常には、名取郡北方内の本知行地を安堵しています。

結城朝常の兄の結城顕朝に対しても、陸奥国高野郡の知行を安堵しています。

斯波直持は奥州管領としての権限で所領安堵などを行った記録があるという事です。

斯波直持の裁判

斯波直持は奥州管領として裁判も行った事が分かっています。

伊賀盛光は好嶋田・浦田の新田所有権を巡って、好嶋新兵衛尉と争っていました。

伊賀盛光は斯波直持に訴状を提出し、八幡領として認める様に判決を求めました。

斯波直持は好嶋新兵衛尉に直ぐに国府に来て、伊賀盛光と対決する様に命令したわけです。

詳細は不明ですが、好嶋新兵衛尉は将軍御教書を賜わり、好嶋新兵衛尉の勝訴が決まったかに思われました。

しかし、好嶋新兵衛尉が正統な手続きを取らずに、乱入狼藉した事で、伊賀盛光は再び好嶋新兵衛尉を斯波直持に訴えています。

斯波直持は岩城隆教に対し真意を訪ね、伊賀盛光の逆転の勝訴が決まりました。

斯波直持は伊賀氏と岩城氏に奥州管領としての裁許状を発給し、事件は終わっています。

斯波直持と軍事

斯波直持は奥州管領であり当然の如く、軍事指揮権を有していました。

しかし、この時期に軍勢催促状や軍忠状証判は殆ど見られず、軍事指揮権はほぼ行使しなかったとも考えられています。

ただし、南部氏の額田部討伐などでは関与していたともされています。

吉良満家が亡くなると吉良持家が奥州管領となりますが、まだ幼少でした。

この時に、一族の吉良治家と吉良貞経が対立し、軍事衝突にまで発展しています。

室町幕府では奥州吉良氏の内紛を重要事項だと考えたのか、石橋宗義を吉良治家討伐に命じました。

この時に、幕府は結城顕朝に両管領と協力し事に当たる様に命じています。

両管領とは斯波直持と吉良持家を指すのでしょう。

石橋宗義への協力を求められた斯波直持ですが、実際の所、どの様な行動をしたのかは定かではありません。

斯波直持の最後

斯波直持の最後はよく分からない状態です。

現在のところ、1367年に石川郡の石川駿河守に対し、沙汰付けする様に命令した文書を最後に姿を消す事になります。

この後に、嫡男の斯波詮持が応安五年(1372年)12月に奥州管領として、相馬胤弘に宮城郡内の高城保内赤沼郷を安堵しました。

この五年の間に、斯波直持は死去したのではないかとも考えられています。

ただし、別説としては1375年に斯波詮持が左京大夫となっており、この頃まで生きており引退したともされています。

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