
| 名前 | 晋の哀侯 |
| 姓・諱 | 姫光 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前708年 |
| 在位 | 紀元前718年ー紀元前709年 |
| 一族 | 父:鄂侯 子:小子侯 |
| コメント | 戦いに敗れ捕虜となり処刑された |
晋の哀侯は春秋時代の晋の君主です。
晋の哀侯の時代は、曲沃の分家の勢力が強く苦しい立場だった様に感じています。
晋の哀侯は曲沃の武公と戦いますが、敗れて捕虜となりました。
韓万により処刑されており、名前の通り最後は哀愁漂うものがあったのではないでしょうか。
晋の哀侯の即位
史記によると、父親である晋の鄂侯が亡くなった事で、即位した事になっています。
記述を見ても、何ら不思議はありません。
しかし、春秋左氏伝を見ると、戦いに敗れた晋の鄂侯の存在があり、周の桓王と曲沃の荘伯の対立があり、晋の哀侯が擁立された事になっています。
史記と春秋左氏伝に差異はあれど、晋の鄂侯の後継者として、哀侯が立った事だけは間違いなさそうです。
尚、史記では晋の鄂侯の死を聞き、好機だと考えた曲沃の荘伯が翼に攻撃を仕掛けますが、周の桓王が虢を晋の哀侯への援軍とした事で、曲沃勢を撃退した事になっています。
それでも、紆余曲折はあれど、最終的に周の桓王は晋の哀侯を支持する立場になったのでしょう。
晋の哀侯の2年に曲沃の荘伯が世を去った事になっています。
晋の哀侯が捕虜となる
春秋左氏伝によると、魯の桓公の2年(紀元前710年)に晋の哀侯が首都の翼の南にある陘庭の田土に侵入したとあります。
晋の哀侯が陘庭に侵入した理由は不明ですが、首都の付近にまで曲沃の勢力が押し寄せていたのでしょう。
首都の喉元とも言える陘庭に、曲沃の武公を味方する勢力を煩わしく思い侵攻したのかも知れません。
陘庭の人々は、曲沃勢に援軍を要請し、武公は陘庭を本陣としました。
武公の軍は勢いがあり、晋の哀侯は退却しますが、汾水の岸辺に追い立てられ、晋の哀侯の車の添え馬が木に引っ掛かり動けなくなります。
晋の哀侯は逃げ切る事が出来ず、夜になると捕虜となりました。
この頃には、翼の本家の軍事力を曲沃の分家が大きく上回っていたのでしょう。
晋の哀侯の最後
春秋左氏伝では、晋の哀侯が捕虜になった後に、どうなったかの記述がありません。
しかし、晋の哀侯が戦いに敗れて捕虜になった後の記録が史記に残っています。
晋の人々は哀侯が捕虜となると、子の晋の小子侯を国君にしたとあります。
晋の哀侯は捕虜になっただけで生きていたと思われますが、子の小子侯が君主となりました。
史記によると、曲沃の武公は、韓万に命じて処刑したとあります。
既に晋では小子侯が立っており、晋の哀侯を生かしておいても価値はないと考えたのかも知れません。
晋の哀侯の死は、本家の滅亡を決定づけたと言ってもよい最後だったのではないでしょうか。
| 先代:鄂侯 | 哀侯 | 次代:小子侯 |