古代オリエント

シュルギはシュメール人最後の英傑

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宮下悠史

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名前シュルギ
生年不明
在位紀元前2094年ー紀元前2047年
民族シュメール人
一族父:ウルナンム 子:アマル・シン、シュ・シン
コメントウル第三王朝の全盛期の王

シュルギとはウルナンムの子であり、ウル第三王朝の二代目でもあります。

その治世は48年にも及び、ウル第三王朝の全盛期の王として活躍しました。

シュルギは文武両道であり、シュメール人の最後の英傑と呼んでも差し支えない人物でしょう。

ただし、治世の後半ではアムル人に侵入もあり、壁を築くなどし防御を固めました。

シュルギは学問が出来るだけではなく、積極的に街道整備を行うなど熱心に政治を行っており、神格化され晩年には四方世界の王を名乗っています。

シュルギは成績優秀

ウルナンムがまだ生きていた頃のシュルギの幼少期の逸話としては、学校での成績が優秀で、算術を得意とし、五つの言語を話すことができたことなどが伝わっています。

シュメール人は同じメソポタミアアッカドとは同胞意識があった一方で、エラム人のことは蔑視していました。

しかし、シュルギはエラムの言葉も理解出来たそうです。

現代の日本であれば大半の人は読み書きができますが、シュメール人の時代は、読み書きができる者は王でも少なかったと考えられています。

シュルギは学校で役人の卵とも呼べる人々と共に勉学に励み、役人としての知識や技術を学びました。

シュルギの時代はウル第三王朝の最盛期であり、彼が優れた統治者であったことに加え、学問に励んだことも繁栄の重要な要因とされています。

シュルギの女性関係

父親のウルナンムがマリを従える事に成功した際には、マリのアピル・キーン王の娘、タラーム・ウラムと政略結婚することになります。

タラーム・ウラムはシュルギの最初の妻で、アマル・シンを生んだと考えられています。

シュメール人の結婚形態は一夫一妻制が基本でしたが、妻に子供が出来なかった場合は、重婚も許されていました。

特にシュメール人の王などであれば、後継者を残す事が非常に重要であったため、複数の妻を持つという事も頻繁にあったようです。

記録を見ると、シュルギはタラーム・ウラムの他にも、妻が8人いた事が分かっています。

メソポタミアの王には、後宮の女性の一部を戦場へ同行させる慣習があったと考えられており、シュルギもその例外ではありませんでした。

特に、妻の一人であるシュルギ・シムティを遠征に伴った可能性が指摘されています。

シュルギは多くの妻を持ち、確認出来るだけで息子は17人以上、娘は13人以上もいました。

シュルギは息子には軍事遠征の指揮などをさせ、娘は政略結婚に使ったと考えられています。

シュルギの即位

古代オリエントの世界は、戦争が激しい地域でもありました。

シュルギも当然ながら戦争で軍を指揮する事になります。

父親のウルナンムがエラム人やグティ人との戦いで戦死した事で、シュルギがウル第三王朝の君主となりました。

シュルギは槍の扱いに長けており、投石機を操作する事もでき、軍の先頭に立って戦った記録もあります。

武芸に優れたシュルギは周りからも期待されていたのではないでしょうか。

街道整備

父親のウルナンムの時代から街道整備が行われていましたが、ウルとニップル間の150キロ以上もある長距離を、シュルギは1日で往復したとする記録もあります。

また、彼は街道に宿駅を建て、休憩所を設けたという話もあります。

旅人の安全を確保する地中海と、ペルシア湾方面からの交易を盛んにするという狙いもあったようです。

シュルギの氷室

シュルギの治世13年目には、氷室を建てたという話も伝わっています。

シュルギよりも300年程後の時代で、マリのジムリ・リムが氷室を最初に建てたという記録がありますが、実際には、シュルギの氷室の方が早かったのではないかと考えられています。

ウル第三王朝とマリは婚姻関係を結んでいるため、シュルギの氷室がマリに伝わった可能性も考えられます。

ちなみに、シュルギの治世13年目は「王が氷室を建てた年」となっています。

メソポタミアの国家運営は非常に難易度が高いとされています。

夏の日中は、気温が50度を超えるなど非常に暑かったため、最高の贅沢である氷を口に入れることが出来るよう、氷室を建設したと考えられています。

シュルギと娘たち

シュルギはエラムよりも遠方にあるマルハシやアンシャンなどに対し、遠征を行うだけではなく、自分の娘を嫁がせるなどといったことも行っています。

可哀想な話に思えますが、遠方に遠征するには高い軍資金が必要であり、遠征に失敗した場合の損失があまりにも大きすぎました。

そのため、娘たちを送り出し、懐柔する必要があったわけです。

ちなみに、シュルギの治世18年目は「王の娘リウィル・ミタシュがマルハシのニン(后妃)の位についた年」であり、シュルギの治世30年は「王の娘がアンシャンのエンシ王に嫁いだ年」となっています。

さらに、シュルギはアンシャンに自分の娘が嫁いでいることも構わず、攻撃を仕掛け滅ぼしたという話も伝わっています。

この件に関してシュルギがどの様に考えていたのか、娘は無事に生きて帰れたのかなどは不明です。

常備軍の設置

話は前後してしまいますが、シュルギは治世20年目にウルの市民を武装させ、常備軍を設置しました。

常備軍は職業軍人のことで、軍事のみを専門にしている人たちです。

中央集権体制を回すためには、官僚制と常備軍の設置が必要だと考えられています。

常備軍の維持には莫大なる予算が掛かりますが、戦争では期待できる要素が高く常備軍を設置したのでしょう。

シュルギの神格化

神格化された理由

シュルギは神殿組織の再編、家畜の再分配、度量衡の整備、新しい暦の導入も行っています。

シュルギの治世には、文書の形式・用語・記録方法が広域で統一され、行政文書の検閲・監査(検知)も制度化されたことが確認されており、これらの改革によってウル第三王朝の国家体制が強固に整えられたと言えるでしょう。

これらの功績により、シュルギは存命中に神格化されています。

ウル第三王朝のシュルギに次ぐ王であるアマル・シンやシュ・シン、イッビ・シンなども神格化されています。

王が神格化される慣習は、イシン第一王朝まで続きました。

シュルギの父親のウルナンムグティ人やエラム人との戦いで戦死しました。

当時の世界では「戦死」とは、神に見捨てられたことを意味するとも考えられていました。

父親であるウルナンムが神に見捨てられた(と見なされた)にも関わらず、シュルギは乗り越え、ウル第三王朝を強大にしました。

これがシュルギが神格化された理由であると考えられます。

シュルギは神の子?

シュルギの王賛歌には、彼はルガルバンダとニンスン女神の子だとする話があります。

神話の世界ではルガルバンダとニンスン女神の子は、ギルガメッシュであり、シュルギをギルガメッシュの兄弟であるとしています。

シュルギは神となり、支配下の都市にもシュルギ神を祀るための神殿が建設されることになりました。

ウル第三王朝では支配地域の暦の統一までは出来なかったものの、シュルギ神の祭の月は多くの都市で採用せざるを得なくなりました。

他民族との戦い

シュルギの後半生は遠征を多く敢行しており、カラハル、シムルム、ハルシなどのフルリ人と戦う事が多かったとされています。

シュルギの戦いは記録上は大成功を収めた事になっていますが、実際には負け戦もあったのではないかと考えられています。

特にシムルムとはかなりの激戦であったようです。

記録に「シムルムを征服した年」が何度も出てきますが、征服するたびに反乱を起こされていたのか、そもそも征服することが出来なかったのかは不明です。

アムル人の脅威

シュルギの時代には、押し寄せるアムル人の侵入を防ぐ為に壁を作っていました。

アムル人がメソポタミア地方南部に侵入した原因として、元はシリアの辺りにいたが、北方からのアーリア系の人々の侵入により、アムル人が押し出され、シュメールの地にやってきたとする説などが挙げられています。

このアムル人がバビロン第一王朝を建国する事になります。

アムル人の侵入が勢いを増したため、ウルはユーフラテス川チグリス川へと防御のための城壁を建造し、侵入を阻止しなければならなくなりました。

この城壁は「山岳に面した城壁」という意味がある「バド・イギフルサグ」と呼ばれます。

こうした中でシュルギは、城壁は1か月以内に完成されるべきであり、労働者は寝ずに作業をせよ、と命じた記録が残っています。

今であれば完全なブラック労働だと言えるでしょう。

アムル人の侵入に関しては、シュメール人の労働力が城壁の構築にも向けられてしまったために、シュルギの時代からウル第三王朝の滅亡の予兆があったと言えます。

家畜収容施設

それでも、シュルギの時代ではウル第三王朝は崩壊することは無く、勢力は強大で北部メソポタミア、ディヤラ河、イラン高原など、メソポタミア南部の周辺諸国からは、大量の家畜が定期的に送られてくる事になりました。

そこで、シュルギは「プズリシュ・ダガン」と呼ばれる、家畜を一時的に収容する施設を建設することを決めます。

シュルギの作った家畜収容施設には山羊や羊、牛などが1年間に6万頭から8万頭も扱われていました。

粘土板に新たなる家畜の誕生や家畜の死亡を記録し、管理していたという事もわかっています。

四方世界の王

シュルギの治世も晩年である45年目には、彼が数々の遠征を行い、内政でも成果を挙げていることから、自らを「四方世界の王」と名乗りました。

アッカド帝国のナラムシンなども四方世界の王を名乗っていました。

四方世界の王とは、地上世界、つまり人間世界をあまねく支配する王の称号でもあります。

晩年に四方世界の王を名乗る辺りは、シュルギの時代のウル第三王朝の強さが分かる様でもあります。

シュルギの最後

シュルギは治世48年で亡くなり、死後にシュルギが愛用していた玉座が聖なる遺物となっています。

シュルギは数多くの実績があったことから、死後も神として祀られたことが分かります。

シュルギが亡くなった際、后妃のシュルギ・シムティとゲメニンリルラは殉死させられたのではないかと考えられています。

その治世は48年にも及びました。つまり、ウル第三王朝の半分ほどはシュルギの時代だったと言えるでしょう。

能力ある人物の政治により、ウル第三王朝は大きな発展を遂げました。

しかし、ここからウル第三王朝は衰退していきます。

原因としては、後継者争いやアムル人の脅威はもちろん、塩害により、メソポタミア自体の土地の収量倍率が低下していたことなどが挙げられます。

最終的にウル第三王朝の最後の王であるイッビ・シンがエラム人に連行され、ウル第三王朝は滅亡してしまいました。

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