名前 | 孫徽(そんき) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
コメント | 主簿をやっていた記録がある。 |
孫徽は正史三国志の袁渙伝の注釈・魏書に主簿として登場する人物です。
孫徽が主簿をやっていた時に、穀熟県長の呂岐が友人の朱淵と爰津を杖で殴打し殺害してしまう事件がありました。
孫徽は呂岐の行為が余りにも酷いと感じたのか弾劾しようとしますが、袁渙に諫められて取りやめた話があります。
孫徽は正史三国志の袁渙伝・魏書の注釈にしか登場しませんが、極めて現代人に近い感覚を持っていた様に思います。
尚、孫徽が弾劾を取りやめたのは、義信がある袁渙の願いだったからだと思いました。
呂岐を弾劾しようとする
呂岐は友人の朱淵と爰津を呼び寄せ、師友祭酒、決疑祭酒に任命しようとしました。
しかし、朱淵と爰津は呂岐の任命を受けず、腹を立てた呂岐が朱淵らを殺害してしまう事件が起きたわけです。
呂岐は任命を断わられただけで殺害してしまったわけであり、世間の非難が集まります。
この時に、主簿の孫徽も呂岐を非難した一人であり、次の様に述べた話が残っています
※正史三国志 注釈・魏書
孫徽「朱淵らの罪は死罪に該当するほどのものではない。
県長は死刑の正統性を持たないと考えるべきだ。
孔子は「器物や名称は人に貸してはならない」と述べている。
朱淵を師友に任命しながら大きな刑罰を加えたのは、刑罰と名称が相対立するもので訓戒とする訳にはいかない」
この時に孫徽は孔子の言葉を使い、呂岐のやった事は正しい行いではないと非難した事になります。
孫徽にしてみれば呂岐は正式な手続きを行っておらず、越権行為であり問題のある行動だと考えたのでしょう。
因みに、孫徽の口から出た孔子の言葉は春秋左氏伝にある言葉であり、孫徽が博学の人物だった事も分かります。
関羽なども春秋左氏伝を好んだ話があり、この時代に春秋左氏伝を好んだものの多さも感じました。
袁渙の諫め
孫徽は呂岐を「やり過ぎ」と判断し、避難しましたが、袁渙は孫徽を諫める事となります。
袁渙は孫徽に対し、次の様に述べました。
袁渙「主簿(孫徽)が言う様に、呂岐が刑罰執行の手続きをしなかったのは確かに罪である。
その点は間違いない」
袁渙は孫徽が考えた様に、呂岐が手続きを踏まずに処刑してしまった事は確かに罪だと述べ、孫徽が正しいと述べたわけです。
しかし、袁渙は孫徽とは別の着眼点を持っており、次の様に述べました。
袁渙「主簿(孫徽)が言う朱淵らの罪が死罪に該当する程のものではない。とするのは間違っている。
それに師友の名称は昔も今も存在しており、君主の師友もいれば士大夫の師友もいるはずだ。
君主が師友を任命するのは臣下に対し敬意を示すものであり、罪があればその男に刑を加えるのは国家の法である。
現在、師友を断わった罪を論じず、師友を殺めたと考える。
これは妥当とは言えない。
主簿(孫徽)が弟子が死を殺害したとする名義だけを取り上げ、君主が下民を処刑したとする実質の上に被せてしまうのは的外れである。
そもそも聖哲の統治は、時勢を観察して対処する。
だから必ずしも不変の法則に則り対処する必要はない。
臨機に対処する場合もなければならない。
近頃は世の中も乱れており、平民であっても上位の者を侮っている。
世間がこの様な状態なら、君主を尊び下臣を卑しめる事に努力をしたとしても、不十分だと感じる。
それなのに、世の中の欠陥を助長する様な事は、間違っていると思う」
袁渙は孫徽に呂岐が朱淵を殺害した事だけを見るのではなく、朱淵と爰津が県長の呂岐の任命を断わった事も問題視するべきだと考えたのでしょう。
現代人の感覚でいえば殺害してしまった呂岐に避難が集まるのが当然であり、呂岐は処罰される対象であったはずです。
しかし、袁渙の思想の中には、当時の中華思想もかなり混ざっていたのでしょう。
袁渙の話を聞いた孫徽は呂岐を弾劾しなかった話がありますが、信義のある袁渙の言葉の重みも感じたからだと思いました。
それでも孫徽は現代人からみれば、まともな感覚を持っているとも言えるはずです。