
荘姜は斉出身の女性であり、衛の荘公の正室となった女性です。
春秋左氏伝によると、斉の東宮(太子)得臣の妹だとあります。
得臣と言うのは謎でありますが、斉の荘公の太子になっていたのでしょう。
ただし、斉の荘公の後継者になったのは、斉の僖公(姜禄甫)であり、別人物の様に感じています。
斉の荘公の在位は60年を超えており、その間に太子も得臣から代わってしまった可能性もあるはずです。
荘姜の逸話に関しては列女伝にあり、傅母を務めた女性が荘姜に戒めを与えた話が残っています。
衛の荘公に嫁いだ荘姜ですが、子が出来ず陳から来た戴媯の子(衛の桓公)を育てました。
荘姜は州吁を憎んだとあります。
州吁は後に衛の桓公を誅しました。
尚、荘姜は美貌であり宮城谷昌光氏は春秋時代でも十指に入る美女としました。
詩経や碩人にも荘姜の美貌を讃える詩があります。
傅母に諫められる
列女伝によると、荘姜は衛の荘公に嫁ぐ事になったとあります。
しかし、妖美ではありましたが、ふしだらな娘であり婦道が成っていなかったとあります。
列女伝には荘姜が我がままだったとも書かれており、容姿が美しかった事から、周りにちやほやされ我が儘に育ってしまったのかも知れません。
これを気にしたのが、傅母だとあり、荘姜の教育係でもあったのでしょう。
傅母は荘姜に「人々のお手本になる様な女性にならなければならない」と説いたとあります。
これ以降の荘姜は徳を修める様になったとあり、列女伝では傅母を褒め称えています。
荘姜はどれ程美しいのか
史記は春秋左氏伝にも荘姜は美人だったと記述があります。
荘姜がどれ程の美貌があったのかは詩経に詳しく、次の様にあります。
※詩経(訳宮城谷昌光著 春秋名臣列伝より)
手は柔らかくて白く 膚は滑らかで白い
笑顔はあいらしく口もとはうるわしい
目はぱっちりと美しい
上記の記述から、荘姜が目がぱっちりとした色白の美人であり、現代でも通用しそうな容貌だった事が分かるはずです。
尚、歴史作家の宮城谷昌光氏は荘姜を「春秋時代の十指に入る美女」として紹介しています。
公子完を養子とする
史記や春秋左氏伝には、荘姜が美人であったが子を生まなかったとあります。
荘姜の父親は斉の荘公だったと考えられ、荘姜が子を生めば、その子は後継者になったはずですが、荘姜は遂に子を生まなかったわけです。
衛の荘公は荘姜に子が出来ない事を悩み、陳の厲媯と戴媯の姉妹を得て、孝伯と公子完(衛の桓公)を生む事になります。
孝伯は早くに亡くなっており、荘姜は公子完を育てたとあります。
正室は大国である斉出身の荘姜であり、公子完を養子にしたのでしょう。
それと同時に荘姜が公子完を育てる行為は、正室と生母がお互いに譲り合い、存続の道を歩んだと言えます。
荘姜と州吁
荘姜が公子完を育てる事になり、公子完が後継者になりました。
しかし、困った事に衛の荘公は別の妾が生んだ州吁を寵愛する様になります。
春秋左氏伝によると、州吁は無事を好み衛の荘公は止める事もなく、荘姜は憎んだとあります。
荘姜から見て武事を好む州吁は危険人物であり、好ましくないと思ったのでしょう。
過去に荘姜はふしだらな女性だった事もあり、同族嫌悪の部分もあったのかも知れません。
史記には衛の桓公が州吁を将軍にしたとまで書いてあります。
列女伝の荘姜の記述の部分には詩経の「猿に木登りを教えるな」の言葉も、引用されています。
後に荘姜の予言は的中したのか、州吁は荘姜が育てた衛の桓公を殺害しました。
荘姜が危険視した州吁への予感は的中したと言えるでしょう。
ただし、荘姜がいつ亡くなったのかの記載があり、衛の桓公が亡くなるのよりも先に亡くなった可能性もあります。